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Lojban Lessons - はじめに

この講座はkribacr, xalboを中心にして書かれた素晴らしいロジバンチュートリアルです。 What is Lojban?やLojban for Beginnersではカバーされていない新しいルールについても触れています。

ロジバンに慣れ親しむために、このチュートリアルを学ぶ前もしくは学びながら、実際にロジバンで会話している動画・音声を聞くことをおすすめします。音読も是非挑戦してください。発音を習得するために非常に役立ちます。 [注: .guskant.さんのko lojbo .iuというロジバン入門音声講座があります。おそらく日本語で唯一のロジバン音声講座なので、ぜひ聞いてみてください。]

このチュートリアルでは、以前までに出てこなかった単語や概念が突然現れることのないように作ってあります。すなわち、一度説明したことは何度も使っていきますので、分からない点は随時その場で解決していってください。もし疑問があれば、ロジバンコミュニティで気軽に聞いてください。きっと良いアドバイスが得られることでしょう。

演習の答えは灰色にしてあるので、見たいときはドラッグしてください。


最後に、文法用語はできるだけロジバンの単語を用いるようにしてあります。(代sumti→sumka'i、発話→jufra)。これは既存の文法用語で説明してしまうと、ロジバンの文法独特の概念がスルーされてしまう可能性があるからです。さらには、ロジバンを学ぶのにもかかわらず、文法用語を一生懸命覚えなければならないようなことを防ぐためでもあります。必死で文法用語を覚えたはいいが、それがロジバン文法の核心をついていないなど百害あって一利なしですから。もうひとつの理由としては、ロジバンのためにわざわざ別の言語の用語を用意する必要などない、ということを主張したいのです。

[注:訳の注釈はこんな感じで書いていきます。] [注: なるべく原文のままに訳そうとはしていますが、どうも意味が取りにくかったり、誤字脱字に関しては本文の編集をしています。誤字脱字の訂正程度は注釈で報告はしませんが、文章を結構がらりと変えた場合は注釈で報告しています。]


Lojban Lessons - 0章

[注: この章は、”手抜き”な章です。lojban for beginnersの音韻論のページと同じものです。これには理由がありまして、テキストで音声を学ぶのは不合理だからです。wavelessonは文法講座ですので、音声については簡単に触れることにします。]

外国語を学ぶにあたっては何はともあれ、その言葉の音の感じ、書き方に慣れ親しむのが肝要です。ロジバンでも同じことが言えます。幸い、ロジバンの音韻論(phonemes)はとても素朴なものとなっています。


母音

ロジバンには6つの母音があります。

a
"father" のa ("hat"のaではない)
e
"get" のe
i
"machine" のi ("hit"のiではない)
o
"bold" や "more" の o ("so"のoではない)
u
"cool" のoo ("but"のuではない)

これらはイタリア語やスペイン語とかなり似ています[注:日本語にもわりと近い]。6番目の母音はyで、曖昧母音といわれるものです。英単語の"America"のaに近い音です。口の力を完全に抜いて、リラックスした状態で「あ」と発音してみてください。その音がyです。 ふた続きの母音は一音で発音します(diphthong, 二重母音)。例を挙げます:

ai
"high" (ハィ)
au
"how" (アゥ)
ei
"hey" (エィ)
oi
"boy" (オィ)
ia
ドイツ語の"Ja" (ヤ)
ie
"yeah" (イェ、ヱ)
iu
"you" (ユ)
ua
"waah!" (ワ)
ue
"question" (ウェ)
uo
"quote" (ウォ)
ui
"we" (ウィ)

[注:ia,ie,iu,ioはひらがなのヤ行にあたります。ua,ue,uo,uiはワ行(わ、うぇ、うぉ、うぃ)にあたります。] 連続で同じ母音が来ることは稀です。例えば iiuu があります。iiはヰ(ヤ行のイ)、uuはウ(ワ行のウ、あ行のウより唇を尖らせる)と発音します。


子音

子音は英語と(日本語とも)ほぼ同じですが、いくらか例外があります。

g
gum のgであって、gem のgではない。(常にひらがなのガ行の音)
c
ship のshの音 (ひらがなのシャ行の音)
j
measure のsの音 (ひらがなのジャ行の音)
x
ドイツ語のBach のchの音 (日本語には存在しないが、カ行とハ行の間みたいな音)

英語のch(ひらがなのチャ行)とj(ひらがなのヂャ行)はそれぞれ tcdj で表します。 ロジバンではH,Q,Wの文字は使いません。

[注:詳しい発音の仕方はCLL3章にありますので、そちらを参考にしてください。→そちら]

特殊記号

ロジバンには句読点が存在しませんが、いくつかの特殊記号(カンマやピリオド)は発音の仕方に関わってきます。 ロジバンで必須の記号はアポストロフィだけです。ロジバンではアポストロフィーはれっきとした文字の一種なのです。アポストロフィはふた続きの母音を別け隔て、一音で発音されるのを防ぎます。アポストロフィそれ自体は"h"の音(ハ行)です。たとえば、ui はウィ、ですが、u'i はウヒとなります。

ピリオドは語と語が続けて読まれるのを防ぐ、小休止の役目をします。逆に言えば、「黙る」こともロジバンではれっきとした「文字」なのです。ある単語AとBを続けて読むとき、Bの語頭が母音の場合、AとBを繋げて読んでしまいがちです。なので、語頭が母音で始まる単語には、慣習的に必ずピリオドをつけることになっています。 [注:続けて読むのは英語圏の人に顕著ですね。in a park を「イナパーク」と読みますから。日本語話者である我々は特に何も考えず、フツーに読めばいいと思います。]

カンマはロジバンでは稀ですが、ふた続きの母音を1音で発音したくはないがアポストロフィを入れたくもない(入れるとハ行の音が入るので)ときに使えます。ロジバン内来の語にカンマはまったく出てこず、非ロジバン語(個人の名前とか)を書くときに出てきます。たとえば、.pi,ER.("Pierre"「ピエール」)、.pier. ("P-yerr"「ピェール」)、 .pi.ER. ("Pee; Ehr"「ピー、エール」)、 .pi'ER. ("Piherr"「ピヘール」) をそれぞれ見比べてみてください。

大文字はロジバンでは普通は使いません。非ロジバン語(Pierreのような)のアクセントをロジバン内来語と異なるところに置きたいときに使います。普通は最後から二番目の音節にアクセントを置きます。たとえば、kujmikce 「看護師」は kujMIKce と読みます。 かの悲劇のヒロインの名前でもある "Juliette" は、英語読みかフランス語読みかで異なりますが、 .DJUli,et..juLIET. となります。


アルファベット

言語の教科書では大体、音と共にアルファベットが書かれているものです。文字(lerfu という)はロジバンでは他言語よりもいっそう重要であることが後にわかるとは思いますが、ここでさっと文字の「名前」「呼び方」について見ておきましょう。 子音の名前はいたって簡単です。子音のあとに曖昧母音のyを付け加えればよいのです。なので、ロジバンでは b, c, d, f, g, .... はそれぞれ、 by. , cy. , dy. , fy. , gy. , .... となります(さっき書いたように、語が後続の語と繋がらないようにピリオドを打っています。)。[注:ちなみに日本語なら、ビー、シー、ディー、エフ、ジーですね。]   母音も同じようにyをつければいいと思うかもしれませんが、かなり発音しにくいですね(.ay.を発音できますか?)。なので代わりに bu を後ろにつけます。 bu は本来「文字」という意味です。というわけで、ロジバンでは a, e, i , o, u, y はそれぞれ、 .abu, .ebu, .ibu, .obu, .ubu, .ybu となります。 アポストロフィもれっきとした文字の一つですので、読み方があります。 .y'y. (ァハァ)です。咳払いとか"uh-huh"のように聴こえるかもしれません。 ロジバンでは、あなたが思いつくような文字のほとんどに呼び名をあてることができます。もしどうしても、H, Q, W をロジバンで言いたいのであれば、 .y'y.bu, ky.bu, vy.bu. と言えます。

ここで一度、ロジバンで自分の名前を書いてみましょう。


ロジバン名 (cmevla)

お互いの言葉が分からないというようなシーンのある映画を見ると、彼らはきまってまず「私、Tarzan」というようなことからコミュニケーションを取りはじめるはずです。これはロジバンを学ぶ際にも良い出発地点となりそうです。

mi'e .robin.
「私はRobinです。」

mi'e は「私(I,me)」を意味するmi と関係があります。ふた続きの母音をアポストロフィが分け隔てている語のいい例ですね。 ロビンは自分の名前をそのままロジバンでも使えるのでラッキーです。しかしながら、実際はロジバン名のための規則がいくつかあり、すなわち、「ロジバン化」をしなければならない名前もあるのです。これはちょっと不思議に思われるかもしれませんが、あらゆる言語はこういった「変形」をある程度行なっているのです。例えば、英語圏の人はスペイン語のJoseをHozayのように発音しようとしますし、中国語ではMargaretはMagelitaとなります。それぞれの言語によって存在する音は違うわけで、元の言語での名前をロジバンの音のみで構成し直し、ロジバン流に綴りを変えていきましょう。 [注:日本人もlittleをリトルと発音したりします(実際の発音はリロゥって感じですが)。外来語というのは、その言語にある程度影響されてしまうわけです。]

Note: ここで言いたいのは、どのような音声体系を使うか?ということです。ひとえに英語と言えど、イギリスとアメリカでは発音がかなり異なったものもあります。 イギリスのRobinは素直に大体 robin. と発音されますが、アメリカでは rabyn. とか rab,n. に近いです。この二国間でさえ、かなりの多様性があるわけです。なので、下に書いた訳例も鵜呑みにせぬよう注意してください。

さて英語の名前 Susanをロジバン化してみましょう。ふたつのsは異なった発音であり、二番目のsは実際は z の音です。aも実のaの音ではなく、さっき述べた曖昧母音(schwa)です。これらを踏まえて、Susan はロジバンでは .suzyn. となります。 語頭と語尾にピリオドがあるのに気づきましたか?その名前がどこからどこまでであり、次の語がいつ始まるのかが分からなくなるので、名前の前後のピリオドは必須です。

姓と名の間にピリオドを打ってもかまいません(強制ではないです)。なのでJim Jones は .djim.djonz. とできます。 名前をロジバン化するにあたって、もうひとつ大事な規則があり、cmevla(ロジバン名)の語尾は必ず子音にします。これも、どこからどこまでが名前なのかを明確にするためです(他のロジバン単語はすべて母音で終わる)。語尾を子音にするために、大抵はsを付け加えます。なので、ロジバンでは、Maryは .meris. になり、 Joe は .djos. になります。他に、最後の母音を消す方法もあり、その場合はMary は .mer. とか .meir. になります。

最後に、アクセントの話をします。さっきも言いましたが、ロジバン内来語では後ろから二音節目にアクセントを置きます。もし違うところににアクセントを置きたいときは、大文字を使います。つまり、英語とフランス語の名前 Robert はロジバンではそれぞれ異なって、英語読みでは robyt. (イギリス) や rab,rt. (アメリカの方言) となりますがフランス語読みでは roBER. となるわけです。

一連の作業の参考のために、以下に有名人のロジバンでの名前を載せておきます。

  1. English
  2. Margaret Thatcher
  3. .magryt.tatcyr. (ロジバンには"th"の発音はありません。発音できる人が少ないのです!)
  4. Mick Jagger
  5. .mik.djagys.
  6. French
  7. Napoleon Bonaparte
  8. .napole,ON.bonaPART.
  9. Juliette Binoche
  10. .juLIET.binOC.
  11. Chinese
  12. Laozi
  13. .laudz.
  14. Mao Zedong
  15. .maudzyDYN. (語尾のngはロジバンでは慣習的にnにします。)
  16. Turkish
  17. Mustafa Kemal
  18. .MUStafas.keMAL.
  19. Erkin Koray
  20. .erkin.korais.
  21. German
  22. Friedrich Nietzsche
  23. .fridrix.nitcys.
  24. Clara Schumann
  25. .klaras.cuman.
  26. Spanish
  27. Isabel Allende
  28. .izaBEL.aiendes.
  29. Che Guevara
  30. .tcegevaras.


Exercise 次の場所はどこにあるでしょう?


  1. .nu,IORK.
  2. .romas.
  3. .xavanas.
  4. .kardif.
  5. .beidjin.
  6. .ANkaras.
  7. .ALbekerkis.
  8. .vankuver.
  9. .keiptaun.
  10. .taibeis.
  11. .bon.
  12. .delis.
  13. .nis.
  14. .atinas.
  15. .lidz.
  16. .xelsinkis.


答え:

  1. New York: アメリカ
  2. Rome: イタリア
  3. Havana: キューバ
  4. Cardiff: ウェールズ
  5. Beijing: 中国
  6. Ankara: トルコ
  7. Albequerque: ニューメキシコ, USA
  8. Vancouver: カナダ
  9. Cape Town: 南アフリカ
  10. Taipei: 台湾
  11. Bonn: ドイツ
  12. Delhi: インド
  13. Nice: フランス
  14. Athens: ギリシャ
  15. Leeds: イングランド
  16. Helsinki: フィンランド

[注:この地名の綴りは英単語をロジバン化したものです。それぞれの国での言い方をロジバン化するとまた綴りは違ってきます。たとえば、日本は .ni'on.でも .japan. でもあるわけです。]

Exercise. 次の名前をロジバン化しなさい。[注:この問題は日本人にはかなり難しいと思います。解答例は、これらを英語読みした通りの綴りです。頑張ってやってみてもいいですが、飛ばしても構いません。]

  1. John
  2. Melissa
  3. Amanda
  4. Matthew
  5. Michael
  6. David Bowie
  7. Jane Austen
  8. William Shakespeare
  9. Sigourney Weaver
  10. Richard Nixon
  11. Istanbul
  12. Madrid
  13. Tokyo
  14. San Salvador

Answer: 一般的に、名前に対する綴りは何通りかあります。人によってオリジナルの発音の仕方があったり、正確な音というのがロジバンには存在しなかったりするからです。なので、好きなほうの綴りを選んでもいいことになります。他の人がそれを聞いて通じるのであれば何ら問題はないのです。

  1. .djon. (もしくは .djan.)
  2. .melisys.
  3. .amandys. (アクセントにもよりますが、最後のyがaに、最初のaがyに、真ん中のaがeになることもあります。)
  4. .matius.
  5. .maikyl. か .maik,l.
  6. .deivyd.bau,is. か .bo,is. (.bu,is. はダメです。これはナイフという意味になります)
  7. .djein.ostin.
  8. .uiliam.cekspir.
  9. .sigornis.uivyr. か .sygornis.uivyr.
  10. .ritcyrd.niksyn.
  11. .istanBUL. (英語のアクセント) .IStanbul. (米語のアクセント) .istanbul. (トルコ語のアクセント) 一般的に、ロジバン話者はその地域での発音を好みますが、絶対的なルールではありません。
  12. .maDRID.
  13. .tokios.
  14. .san.salvaDOR. (スペイン語のアクセント)

名前としてのロジバン内来語

今まで、自分の名前をロジバン化してきました。しかし、お望みであれば、自分の名前をロジバンに翻訳することもできますし、まったく新しいロジバンでの名前を採用することもできます。 [注:山本をmountain book とするような感じですね(笑)] ロジバンの単語(cmevlaを除く)は母音で終わります。名前としてロジバン内来語をそのまま使うこともできなくはないのですが、普通はcmevlaの形にしたほうがよいので、語尾に子音をつけるか母音を省くかしてcmevlaの形にします。 いくつか例を挙げておきます(左から順に 元々の名前―意味―cmevlaの形での名前)。

・ 魚 - finpe - .finp. ・ Björn (スカンディナヴィア語で熊) – cribe – .crib. ・ Green - crino - .crin. ・ Mei Li (中国語で「美」) - melbi - .melb. ・ Ayhan (トルコ語で月の主人) - lunra nobli (= lurnobli) - .lurnoblis.

Lessons

Lojban Lessons - 1章 (bridi, jufra, sumti, selbri)

bridi はロジバンの発話(発言)における核となる部分です。この概念は日本語でいう「命題」に非常に近いものです。bridi とは「いくつかのモノ・ヒトが互いとある関係にある」もしくは「あるモノにとある性質が備わっている」ということを主張するものです。これはjufra と対照的なものです。jufraは単にロジバンの発言のことをいい、bridiよりも広い概念です。この2つの違いは、bridiは何かを言明・主張するものであるのに対し、jufraは必ずしもそうでないというところにあります。ですから、bridiは真偽を問える一方で、jufraは全部がそうとは限りません。 [注: bridiならば必ずjufraですが、逆は必ずしも成り立ちません。]

いくつか例を挙げましょう。「モーツァルトはどんな時代においても最も偉大な音楽家だった。」はbridiです。なぜなら、この文は真偽を問うことができ、あるモノ(モーツァルト)と性質(どんな時代においても最も偉大な音楽家である)を含んでいるからです。反対に、「うわっ、つま先が!」はbridiではありません。というのも、この文は関係性を含んでおらず、故に何かを主張しているものではないからです。しかし、どちらも発話ですからjufraです。

次の日本語jufraの中からbridiを見つけよ。 「君がそんなことをするのは嫌いだね。」 「走れ!」 「わあ、それ美味しそう!」 「げぇ、もううんざり。」 「いいえ、私は車を3台持っていますよ。」 「8時19分」 「今週の土曜日、うん。」 Answer: 1, 3 , 5 が bridiです。 2 は対象を含んでいませんし、その他は関係性や性質についての言明がありません。

ロジバン文の「パーツ」を見ていきましょう。bridiは1つのselbriといくつかのsumtiからなります。selbriとはモノについての関係性や性質を表すもので、sumtiはある関係にあるモノのことをいいます。ここで注意してほしいのですが、「モノ(object)」というのは「sumti」の完璧な訳ではありません。というのも、「sumti」は物理的物体を指すだけでなく、「戦争という概念」のような純粋に抽象的なものも指すことができるからです。よりよいsumtiの訳は「対象・直接的あるいは間接的なモノ(subject, direct or indirect object)」であり、selbriは「用言(verb)」となるでしょう。しかし、後々わかってくると思いますが、どちらも最高の訳とはいえませんので、selbriはselbri、sumtiはsumtiとして理解しましょう。 さて、最初の大事なポイントを学んでいきます。

bridi = selbri + 一つ以上のsumti

言い換えれば、bridiは「いくつかのsumtiはselbriによって表されることをする/ものである」ということを表すわけです。

次の日本語jufraについて、sumtiとselbriに相当する語句を答えよ。

「私は娘を車で迎えにいくつもりだ。」

Answer: selbri: "迎えにいく”. sumti: “私”, “娘”, “車”

「彼はマークからたった20000円で新しいシャツ5着を買った。」

Answer: selbri: “買った” sumti: “彼”, “新しいシャツ5着”, “マーク” , “20000円”

これらの概念はロジバンにとって基本的なものですから、もうひとつ例を出します。 「今のところ、EPAは二酸化硫黄の排出量についていくらか対策している。」

Answer: selbri: “対策している” sumti: “いくらか”, “EPA” , “二酸化硫黄の排出量”


それでは、実際にロジバンbridiを作りましょう。そのために、selbriとして働く単語が必要ですね。 [注: このようなselbriとして働く単語のことをbrivlaといいます。頭の隅にでもおいといてください。]

dunda x1 は x2 を x3へ 与える(支払い無しで) pelxu x1 は黄色い zdani x1 は x2の家だ

これらの単語に対応する日本語の単語(与える、黄色い、家)はそれぞれ、動詞、形容詞、名詞と品詞が異なります。ロジバンでは、そういった区別がありません。dundaは「与える」(動詞)、「贈与者である」(名詞)、「与える性質がある」(形容詞)と訳されますし、副詞のようにも訳されることがあります。[注:形容詞に関してですが、英語でis givingです。日本語に上手い訳がないですね。] これらはすべてselbriとして働けるので、文法的には同じように使うことができます。

同様に、sumtiとして働く単語もいくつか挙げましょう。

mi 「私」「私達」 :発話者 ti 「これ」 : 話者によって指された近くにあるモノや出来事 do 「あなた」 :話しかけられている人、話を聞いている人

さきほどのselbriの訳に見慣れないものがありましたね、x1,x2,x3です。これらはsumti位(sumti places)と呼ばれるものです。sumti位はbridiを完成させるためにsumtiがハマり込む場所のことです。sumtiをはめ込むことで、それをその場所にフィットさせることができます。例えば、dundaの2番目の位置の意味は、「与えられるモノ」です。3番目は「受け取る対象」です。dundaには英語でいう「to」や、日本語でいう助詞「は、を、に」が元々内蔵されているのです。英語では「受け取る人」を表すためにtoをわざわざ用意する必要がありますが、ロジバンでは「受け取る人」はdundaの3番目のsumti位と決まっています。ですから、dundaの3番目のsumti位を満たせば、そのはめ込んだsumtiがいつでも「受け取り人」の意味になります。toのような語句がロジバンでは不要なのです! [注: ロジバンには格が存在しないとも言えます。しかし、これでは覚える量が膨大になってしまうのでは、と思う人もいるでしょう(いちいちPSを覚えなければならないため)。英語でいう前置詞が存在しないわけではなく、厳密にはそれに相当する表現はあります(9章-sumtcita)。詳しいことはここでは述べませんが、移動のtoに相当する語 seka'a などもあります。大事なのは、英語のtoは意味的に曖昧・多義的であり、ロジバンの前置詞相当語句はそういった曖昧性が少ないということです。]

bridiを作るには、単にx1のsumtiを最初に、次にselbriを、そして他のsumtiを言えばよいのです。 たいていのbridiは次のような構造をとります: {x1 sumti} {selbri} {x2 sumti} {x3 sumti} {x4 sumti} {x5 sumti} {その他諸々} この順番は色々と変えることができるのですが、今のところはこの形で覚えてください。「私はこれをあなたに与える。」は、 mi dunda ti do と言えばいいですね。

それでは、「これは私の家です。」はなんと言うでしょうか?

Answer: ti zdani mi

位置構造(place structure)という概念に慣れるためにもう少し練習してみましょう。

「あなたはこれを私に与える」は?

Answer: do dunda ti mi

では、ti pelxu を訳してみてください。

Answer: 「これは黄色い。」

コツを掴んだらなんてことはないですね! [注:PS構造は定義されたものですが、デタラメに決められたものでは決してありません。入念に議論に議論を重ねた結果、できあがったものです。いくらか法則(絶対的ではない)がありますので、参考にしてください。:

① x1はしばしばselbriの行為者、主体である。 ② x2は大抵、主体になされるもの(客体、目的格)になる。 ③ あまり使われない位は後ろの方にいく。基準とか方法とか原料がこれにあたる。]

複数のbridiは.i で区切ります。これはいわゆる「ピリオド」に相当するものですが、多くの言語と違って、.iはbridiの前に置きます。最初のbridiでは.iを省くことが多いです。例を見てみましょう。

ti zdani mi .i ti pelxu 「これは私の家だ。これは黄色い」

次の章に進む前に、今回やったことを頭に馴染ませるために7分以上は休憩することをお勧めします。

Lojban Lessons - 2章 (FA と zo'e)

selbriのほとんどは1個から5個のsumti位を備えていますが、大体は2,3個です。4つのsumti位を持っているselbriとしては次のようなものがあります:

vecnu x1は x2(モノ) を x3(人)に x4(値段)で売る

「私はこれを売る」と言いたいときは、x3とx4のsumti位をどうすればいいのでしょう?なんと、何もする必要はありません。sumti位にはzo'eがハマり込んでいるとみなされます。zo'eはそのsumti位の内容が重要でないとか文脈から明らかとかの理由により明示されていない、ということを示します。

zo'e “なにか” 何かをそこに埋めよ、しかし何なのかは明示しない。

ですから、「私はあなたに売る」は、mi vecnu zo'e do zo'e (私は何かをあなたに何円かで売る)と言うことができます。 それでは、これは何て言えばいいでしょう?:「あれは(誰かの)家です」

Answer: ti zdani zo'e

「(誰かは)これを(誰かに)与える」はどうですか?

Answer: zo'e dunda ti zo'e

そうはいうものの、「あるものが売られている」というときに3つのzo'eで全てのsumti位を埋めるのは少々面倒でもありますね。なので、すべてのzo'eを書く必要はありません。ルールは至ってシンプルで、どんなsumtiも省いたらそこにはzo'eがあるとみなされる、ということだけです。selbriではじまるbridiでは、x1のsumti位が省略されているとみなされ、そこにzo'eが想定されます。 早速やってみましょう。「私は売る。」をなんと言いますか?

Answer: mi vecnu

さらに、「zdani mi」はどういう意味ですか?

Answer: 「何かは私の家です。」または「私は家を持っています。」

前に少し触れましたが、各パーツの順番は{x1 sumti} {selbri} {x2 sumti} {x3 sumti} {etc.}でなくてもいいのです。実際、selbriはbridiの先頭以外ならどこに置いてもかまいません。ひとつだけ注意してほしいのは、selbriをbridiの先頭に置いてしまうと、x1のsumtiが省略されたとみなされてしまうことです。これらを踏まえると、次の3つのjufraは全く同じ意味のbridiです:

mi dunda ti do mi ti dunda do mi ti do dunda [注:これはまさに日本語の文と同じ語順ですね!]

これは詩を作る際に時々使われます。「君は君自身を売る」は do do vecnu ですが、これは do vecnu do よりもリズムがいいですね。また、selbriがとても長いときに文構造を明確にするために順番変えをすることもあります。すなわち、selbriをbridiの最後に持ってくるわけです。

sumtiの並びを変える方法もいくつかあります。最も簡単なのは、fa, fe, fi, fo, fuを使うことです。母音がアルファベット順になっていることに注目してください。これらの語を使うことで、次にくるsumtiがそれぞれx1,x2,x3,x4,x5を埋めるということを示すことができます。fa,...,fuのついたsumtiの次にくるsumtiはそれよりも大きなsumti位を埋めると想定されます。例を見てみましょう。 dunda fa mi fe ti do 「与える 私は これを 君に」。faはx1、与える者、すなわち「私」を印づけています。feは与えられる物(ti)、x2を印づけています。feでタグ付けされたsumtiの次にきているsumti(do)は、2位の次、すなわちx3(受け取る人)を意味しています。

次の3つの文を訳してみましょう。

mi vecnu fo ti fi do

Answer: 「私は売る、この値段で、君に。」

zdani fe ti

Answer: 「これは家を持っている。」 今回feは余分ですね。

vecnu zo'e mi ti fa do

Answer: 「君は何かを私にこの値段で売る。」

[注:タイトルのFAは何なのか分かりますか?ロジバンにはfa,fe,fi....のような文法的に意味のある語というのがたくさんあります。これらは使用方法によって分類されており、その分類名をそのカテゴリの代表的な語の大文字で表します。つまり、FAはfa,fe,fi,fo,fuが属するカテゴリのことです。]


Lojban Lessons - 3章 (tanru と lo)

 この章では、tanruという概念に慣れ親しんでみようと思います。tanruはひとつのselbriの前にもう一つ、それを修飾するselbriを置くことで作ります。tanruはそれ自体がひとつのselbriであり、他のselbriやtanruとさらに複合tanruを作ることができます。ですから、 zdani vecnu はtanruですし、pelxu zdani vecnu はpelxu zdani というtanruと、一つのbrivla、 vecnuからなっています。[注:brivlaとはselbriとして使える語のことです。品詞については13章でやります。とりあえずは「selbriとして使える語」と考えてください。] tanruの概念を理解するために、「レモンツリー」という言葉について考えてみます。「レモンツリー」が何かは知らないが、レモンとツリーは知っているとします。このとき、レモンツリーが何なのか推論することは実はできません。ひょっとすると、レモン色のツリーかもしれないし、レモンの形をしたツリーかもしれません。もしくはレモンのような味のする樹皮のツリーかもしれません。確かなことは、「レモンツリー」が何らかのツリーであり、何らかの形で「レモンのようである」ということだけです。 上の喩えはtanruの本質を突いています。zdani vecnuが何であるかは正確には分からないのですが、それがvecnuであること、何らかの形でzdaniのようであることだけは確かなのです。理論上は、zdaniとの関係性がいかに馬鹿げて間抜けなものであっても、その関係性は zdani vecnuで表せられるのです。しかし、そのtanruがコミュニケーションで通用するためには、zdani vecnuは一般的な感覚におけるvecnuでなければなりません。zdani vecnu を「家屋販売員」と訳してもいいですし、少しぎこちないですが「家屋型の販売員」と訳してもいいです。tanruの位置構造(sumti位の構造)は、必ず最も右端のselbriと等しくなります。これはつまり、左にあるselbriが右のselbriを修飾するということでもあります。

「ほんとに?」と懐疑的な人もいるはずです。「tanruの左の語との関係性がどんなに馬鹿げていても大丈夫なんて本当なの?それじゃあ、あらゆる販売員のことを『zdaniっぽい』からといってzdani vecnuと呼んでもいいわけ?」と。 答えはイエスです。しかし、そんなことをするのは探偵くらいでしょう。もしくは、意図的に誤解させようとするときぐらいではないでしょうか。一般的に、tanruは、左の語が右の語とどう関係しているかが明らかなときに使うのがいいです。

次の文を訳してみましょう: ti pelxu zdani do

Answer: 「これは君の黄色い家だ。」 実際は何が「黄色」なのかは分かりません。多分、黄色く塗られているのでしょうが、定かではありません。

mi vecnu dunda

Answer: 「私は販売のように与える。」これはどんな意味にとれるでしょう?さっぱりです。dundaの定義によれば、支払いは関与し得ないのですから、何かを売るという意味にはなりそうもありません。それは無料サンプルであり、しかし、ある側面で販売を匂わせるようなものでなければなりません。


さて、ここからはがらっと話題が変わります。「私はドイツ人に売る」はどう言えばいいでしょう?

dotco x1 は ドイツ人/x2という点でドイツ文化を反映している

mi vecnu zo'e dotco とは言えません。ひとつのbridiに2つのselbriを入れるのは禁止されているからです。 mi dotco vecnu とは言えますが、これは意味が曖昧すぎます(私はドイツ風に売る?)。同様に、「私はアメリカ人と友だちだ」と言うときはどうすればいいでしょう?

pendo x1 はx2の友達だ merko x1 はアメリカ人/x2という点でアメリカ文化を反映している

またもや、mi pendo merko とは言えますが、tanruを形成し、「私は友達のようなアメリカ人だ」となり言いたいことと異なります。どうすればいいかというと、merkoをpendoのsumtiとして使えるように変形するのです。代表的なselbriのsumti化にはloとkuという2つの語を使います。

lo – selbriをsumti化する総称的な開始語。そのsumtiの意味はselbriのx1と等しい。 ku – sumti化を終了させる語。

使い方は簡単です。sumti化したいselbriをこの2つの語で挟むのです。その語句はselbriのx1の意味となります。厳密にいえば、「selbriのx1であるようなもの」です。 たとえば、zdaniのx1を満たせるのは「家であるようなもの」です。ですから、lo zdani ku は「(誰かの)家」を意味します。同様に、あるものがpelxuであると言えば、「それは黄色い」という意味ですから、 lo pelxu ku は「黄色いもの」を指します。

さて、「私はアメリカ人と友だちだ」を言える準備は整いました。どう言えばよいでしょうか?

Answer: mi pendo lo merko ku

kuが必要なのにはちゃんとした理由があります。「ドイツ人はこれを私に売る」を訳してみてください。

Answer: lo dotco ku vecnu ti mi もしkuを省いてしまったら、bridiは形成されず、単に3つのsumtiを羅列するだけになります。lo...kuではbridiは変換できないのですから、tiはそのsumtiの外に放り出され、loが作るsumtiは強制的に閉じられます。よって、その文は3つのsumti、lo dotco vecnu {ku}, ti, mi となってしまうのです。

lo zdani ku pelxu のようなjufraには常に注意しておく必要があります。もしkuが省かれてしまうと、loのsumti化プロセスが続いてしまい、zdani pelxu というtanruがloによってsumti化された、単なる1語のsumtiとなってしまいます。つまり、 lo zdani pelxu {ku} となってしまうのです。

[注: 実は適切な条件下ではkuは省略してもよいのです。このことについては8章でやります。]


Lojban Lessons - 4章 (心態詞(attitudinals))

 英語圏の人[注:日本人にもかな?]に馴染みのない概念のひとつに心態詞があります。心態詞は感情を直接表現する語句のことです。心態詞のアイデアは男女平等主義者がこしらえた言語、Ladanに起源があります。Ladanでは真に女性らしい感情を表現することができます。このアイデアは、女性らしい感情の表現が男性支配的な言語によって妨げられており、もしより自由に表現することができるならば、そういった女性的感情表現は言語の自由を通して女性の権利向上を後押しするだろうというところから生まれました。  ロジバンにはそんな思惑はないですが、心態詞があまりにも素晴らしく、便利であることからロジバンに組み込まれてきました。心態詞にはいわゆる自由文法が備わっています。つまり、bridiの文法やその他いかなる文法構造をも崩すことなく、bridiのほとんどあらゆる場所に現れることができます。  ロジバンでは、心態詞はその直前の語に係ります。もしその語がある構造を始めるもの(.iやloなど)であれば、心態詞はその構造全体に係ります。同様に、心態詞がkuのようなある構造を締めくくる語の直後にくる場合も、その構造全体に係ります。

例のために、心態詞を2つほど載せます。 .ui : 心態詞: 単純純粋感情: 幸福 - 不幸 za'a : 心態詞: 認識系(evidential): 私は直接観察する

.uiの定義に注目してください。2つの感情、幸福と不幸がありますね。これはつまり、.uiは幸福と定義され、その一方で「否定」、不幸も意味するということです。「否定」というのは少し意味合いが異なるかもしれないですね。細かな話をすれば、.uiの別の定義はもうひとつ語をつけた、.ui nai で表されます。ほとんどの場合、心態詞の2番目の定義(接尾辞naiをつけた形)は実際、元の心態詞の否定となります。例外はありますが、そこまで多くありません。

さらにいくらかselbriを覚えましょうか: citka – x1 は x2を 食べる plise – x1 はx2(種)の林檎

do citka lo plise ku .ui という文は、「君が林檎を食べる、いえい!」という意味になります。(特に、食べるという行為や食べている人にではなくその林檎に対して話者は幸福感を表しています)。do za'a citka lo plise ku という文では、話者は実際に、林檎を食べるのは他の誰でもなく君だということを直接観察しています。

心態詞がbridiの最初に置かれた場合は、あろうがなかろうが.iに係っていると理解しますから、bridi全体に係っているということになります。 .ui za'a do dunda lo plise ku mi 「いえい!僕は君が僕に林檎をくれるのをこの目で見たよ!」

mi vecnu .ui nai lo zdani ku 「私は家を売る(くそっ)」

いくつかの例で試してみましょう。まず、さらにいくつか心態詞を載せます。 .u'u 心態詞: 単純純粋感情: 罪の意識がある - 無慈悲 - 無垢 .oi 心態詞: 複合純粋感情: 不満 - 快適 .iu 心態詞: 雑多純粋感情: 愛 - 憎しみ

どうですか、ひとつの定義に3つの感情がありますね!中央の感情は接尾辞cu'iをつけて表します。意味としてはその感情の中間地点です。ということで、 .u'u cu'i は無慈悲を意味します。 [注:この場合、naiをつけた意味は3番目の定義(無垢)になります。] cu'i 心態詞の中間を示す: 心態詞の意味をその感情の「中間」へと変える。

「私はなにかをドイツ人(僕の大好きな)にあげる」と言ってみましょう。

Answer: mi dunda fi lo dotco ku .iu もしくはfiの代わりにzo'eでも構いません。

では次に、「(快適)ふふ、私は黄色い林檎を食べる。」

Answer: .oi nai mi citka lo pelxu plise ku

もうひとつ、ちょっと毛色の違った心態詞を載せます。 .ei 心態詞: 複合命題感情: 義務 - 自由

使い方はいたって簡単です。「私はその林檎をやらなければならない」は mi dunda .ei lo plise ku です。しかし、少し考えてみると、この心態詞は奇妙です。今まで見てきた他の心態詞はそのbridiについての話者の感情を表していたのに対し、.eiはそのbridiの意味合いを変えてしまっています。なぜでしょう?たしかに、「私はその林檎をやらなければならない」というのは、実際に林檎をやったのかどうかについては何も言及していません。反対に、.uiを使った場合では、実際に私は林檎をやっており、そしてそれについて幸せだと述べているのです。一体全体どうなってるのでしょうか? [注: .uiは現実世界に起こる出来事を表すbridiに対する感情表現ですが、.eiは仮想世界(話者の頭の中の世界)で起こる出来事を表すbridiに対する感情表現となっています。日本語の文をいまいちどよく見てみると、これは「林檎をやる」という出来事を頭の中で思い浮かべ、それに対して義務感を感じているという文であることがわかるかと思います。『.eiがbridiの意味合いを変えてしまっている』とはそういうことであり、それゆえに「~しなければならない」という文は、実際それを行ったかどうかについては何も言及していないのです。]

どういった心態詞がbridiの真になるための条件を変えるのかというこの問題は、そこまで盛んに議論されてはいません。ひとまず公式の見解は、この違いは「純粋感情」と「命題感情」の差にあるとしています。命題感情だけがbridiが真になるための条件を変え、純粋感情は変えることができないのです。 [注: 真になるための条件について補足しておきます。純粋感情のつくbridiは現実世界の出来事を表しており、命題感情のつくbridiは仮想世界(頭の中)の出来事を表しています。ですから、命題感情のついたbridiが真となるためには、仮想世界でその出来事が成り立つ、たとえば義務感についていえば、その仮想上の出来事について義務感をもってさえいればそのbridiは真となります。これがbridiの真になる条件が命題感情がつくか純粋感情がつくかで変わるということです。] bridiの真理値を変えずに命題感情を使うには、.iを用いてbridiとそれを隔ててやる必要があります。また、bridiの真になるための条件を明示的に変える語もあります。

da'i 心態詞: 談話系: 仮定 - 現実

da'iを用いれば、bridiの真なる条件が仮定状態[注: そのbridiが仮想世界の出来事を表す]に変わり、これはちょうど命題感情を使ったのと同じになります。一方、その否定da'i naiを使えば、仮定状態から普通の状態にbridiを戻すことができ、これは純粋感情を使う場合に等しいです。

それでは、「私は林檎をやる(そしてそれについて義務感がある)。」というのを二通りの方法で書いてみましょう。

Answer: mi dunda lo plise ku .i .ei と mi dunda da'i nai .ei lo plise ku

[注: おそらくda'inaiよりもda'iをみたほうが分かりやすいと思います。da'iはいわゆる仮定法です。.ui da'i do klama ti は、「君がここに来てくれたら嬉しい」となります。do klama tiは仮想世界(頭の中)の出来事であり、それに対して嬉しいと言っているのです。これは、.a'o(希望)に近いですね。ちなみに.a'oもやはり命題感情です。] [注: この一連の話は分かりにくいとおもいます。実際4章時点で理解しなければならないことかと言われると正直微妙です。結局ここの話は、私たちが自然言語で普通に行なっていることをしっかり分析しておこう、という話に近いです。言い換えれば、自然言語と同じように使えば問題ないともいえます。]

daiを使うと自分でなく他の誰かが心態詞で表される感情を持っているという風にできます。日常会話では大抵、その心態詞は聞き手に向けられますが、必ずしもそうである必要はありません。また、その語が「感情移入」と訳されることから、話者もその人と同じ感情を抱いてなければならないと誤解している人もいますが、そうではありません。[注: daiは直前の語のみに係ります。.ui .oi dai は、(.ui) (.oi dai) です。] dai 心態詞 修飾語: 感情移入 (心態詞を自分以外の誰かに向けて使う) .u'i: 心態詞: 単純純粋感情: 愉快 - 退屈、疲労

例: u'i .oi dai citka ti  「はは、これが食べられている!さぞ不満だろうな」

よく使われるフレーズ .oi .u'i dai はどういう意味でしょう? Answer: 「なんてこった、滑稽に思われるだろうな」

ひとつ、確認問題をしてみましょう。「彼は家を売るのを残念がった」を訳してください。(二点ほど注意があります。ロジバンでは時制は含蓄されているので特に明示する必要はありません。あと、「彼」というのは文脈から明らかなので省いてかまいません。)

Answer: u'u dai vecnu lo zdani ku

最後に、心態詞の強弱について話して終わりたいと思います。強弱をつける語が用意されてあり、それを強めたい語の後(接尾辞があればその後)に付け加えます。selbriのような、心態詞以外の語を修飾する場合、その意味は明白には定まっていませんが、概してそのselbriの意味を強めたり弱めたりすると理解します。

修飾語 強度 cai 非常に強い sai 強い (none) 不定 (中間) ru'e 弱い

.u'i nai saiはどんな感情でしょう? Answer: 強い退屈感

次に、あなたが少し冷ややかであることを表すにはどうすればいいでしょう?

Answer: .u'u cu'i ru'e


Lojban Lessons - 5章 (SE)

より複雑な構造に入る前に、sumtiの順序を並び替えるもうひとつの方法について学んでおきましょう。あとで述べますが、これは描写sumti (loを使うような類のsumti)を作る際にもかなり便利です。

「私は贈り物を食べる」という文について考えてみましょう。ここで贈り物とは林檎のような食べ物とします。これを訳すには、とりあえず「贈り物」という語を探せばよさそうです。しかし、鋭い人は気付いたかもしれません。dundaの定義をもう一度注意深くみてみると、dundaのx2は与えられる物、すなわち贈り物ですね。 だからといって、mi citka lo dunda kuとは言えません。lo dunda kuとは、dundaのx1であるようなもの、すなわち贈与者のことだからです。カニバリズムならともかく、贈与者を食べるなんて言いたくはありませんね。結局のところ、我々はselbriのx2の意味になるsumtiを作りたいのです。

ここで活躍するのがseです。seはselbriのx1とx2を転換します。[注: 転換前のsumtiをx、転換後のsumtiをyで表せば、x1 SELBRI x2に対して、y1=x2 se SELBRI y2=x1 となります。] また、se + selbriはそれ自体でひとつのselbriとみなされます。 ひとまず、通常の文でseを試してみましょう。 fanva = x1はx2(文字列)をx3(言語)にx4(言語)から翻訳し、x5(文字列)を生む ti se fanva mi = mi fanva ti これは私によって翻訳される (=私はこれを翻訳する)

se構造をもつbridiはしばしば受動態で訳されることが多いのですが、それはx1がふつう行為者/主体を表すことによります。[注:これはあくまで自然言語との対応であり、ロジバンには態は存在しません。これは、態の概念が文化的影響を受けているからです。] seはあるカテゴリに属しており、そのカテゴリの語はすべてx1とあるsumti位を転換します。 se x1 と x2を入れ替える te x1 と x3を入れ替える ve x1 と x4を入れ替える xe x1 と x5を入れ替える

[注: 結局、 seは、「x1 selbri x2 x3 x4 x5」 を 「x2 se selbri x1 x3 x4 x5」 とするわけです。] [注: veやxeはあまり使われないのが実情です。というのも、1章の注に書いたように、x4やx5というのはそもそもあまり使われない語がくるからです。veやxeがx4,x5を前に持ってくることを考えれば、その使用頻度は低いことは自然と理解できると思います。]

s,t,v,xはアルファベット順ですので、覚えやすいかと思います。

さて、この知識を使って、ti xe fanva tiを訳してください。

Answer: 「これはこれの翻訳です」

seとその類の語はもちろんFA類(fa,fe,fi...)と併用でき、あえてややこしい文を作ることもできます。:

klama =x1はx2(終点)にx3(起点)からx4(経路)をx5(方法)で行く/旅する fo lo zdani ku te klama fe do ti fa mi = mi te klama do ti lo zdani ku また、teはx1とx3を転換するので、 = ti klama do mi lo zdani ku 「これは君のところへ僕のところから家を経由して行く。」

もちろん、相手を混乱させたい場合やいじわるな文法問題を除いて、誰もこんな文を作ろうとはしないでしょう。

さて、「私は贈り物を食べる」に戻りましょう。やることは単純で、x1に贈り物がくるようにdundaを転換してやり、それをlo...kuで囲ってやればいいのです。さあ、答えはどうなるか分かりますか?

解答例: mi citka lo se dunda ku

これがseとその仲間のよくある活用方法のひとつとなります。 [注:lo...kuでselbriをsumti化すると、その意味は必ず「selbriの1位であるようなもの」となります。 ですから、lo dunda ku は「dundaの1位であるようなもの」すなわち、与える者となるわけです。 te dunda もまたひとつのselbriなので、これをlo...kuで囲めば、「その1位であるようなもの」を表します。つまり、lo te dunda ku は「与えられる者」、「受取人」を意味するというわけです。] [注: 言葉遊びですが、lo dunda ku dunda lo se dunda ku lo te dunda ku はれっきとしたbridiです。意味はあまりないですが。] [注:se,te,ve,xeはすべて同じカテゴリ、SE類に属しています。]


Lojban Lessons - 6章 (抽象句)

今まで、1文に主節だけ、つまり入れ子構造のない文を扱ってきました。しかし、より複雑なことを表現するには、従節を含んだ文を作る必要が出てきます。幸い、ロジバンではそういった文は想像より遥かに簡単に作れます。
まず次の例文から始めましょう:「君が僕の友達だなんて僕は幸せだ」。ここで、主bridiは「〜だなんて僕は幸せだ」であり、副bridiは「君は僕の友達だ」となりますね。「幸せだ」という語、glekiの定義を見てみましょう。

gleki : x1はx2(事)に関して嬉しい/幸せ/幸福/上機嫌 x2(事)というのがありますね。これは当然のことで、人というのはモノそれ自体に幸せと感じるよりは、モノがある状態にいるという出来事に幸せを感じるからです。しかし、出来事を表すのはbridiです。一方で、glekiのx2にはsumtiしかはめ込めません!これは困りました。

ご想像通り、策はちゃんとあります。su'u...keiという語句は包括的な「bridiをselbriに変換する」装置であり、lo...kuと同じように語句を囲みます。[注: このようなbridiをselbriに変換する語のことを抽象詞(abstractor)と呼び、抽象詞とそれによって囲まれたbridiの構成体のことを抽象句と呼びます。]

su'u x1 はx2型の{bridi}の抽象句である kei 抽象句を終わらせる

Example: melbi x1 はx2にとって美しい dansu x1はx2(音楽/リズム)に合わせて踊る melbi su'u dansu kei - 「美しい踊りだ」 [注: su'u...keiで挟まれているのがdansu一語だけですが、これも立派なbridiであることに注意してくでさい。dansuはzo'e dansu zo'eと同一です。]

bridiをselbriとして利用することはあまりありません。代わりに、su'u BRIDI kei がひとつのselbriであることを利用し、lo...kuで囲ってsumti化することがよく行われます。これで、さっきの文を訳す用意ができました。やってみてください! pendo x1はx2の友達

Answer: mi gleki lo su'u do pendo mi kei ku

[注: lo su'u ... kei ku は「~ということ」とほぼ同意です。抽象句とは英語でいう「that節」や「動名詞」のようなものです。大事なのは、以下で述べる通り、ロジバンではいわゆるthat節が細分化されており、そちらのほうがよく使われるということです。]

しかし、su'u...keiはあまり使われません。代わりに、もっと限定的なnu...keiとdu'u...keiがよく使われています。これらは同じように機能するのですが、その意味が異なります。nu...keiは出来事や状態を表すときに、du'u...keiは抽象bridi、つまり思考内容や事実について表すときに使います。これら(keiは除く)はすべて抽象詞(abstractor)と呼ばれています。他にも色々ありますが、ほとんど使われません。su'u...keiは万能な抽象詞で、すべての場合に使うことができます。

nuを使って「私はあなたと話せて嬉しい」と言ってみましょう。 tavla x1(者)はx2(者)にx3(題目)についてx4(言語)で話す/語る

Answer: mi gleki lo nu tavla do kei ku (この文では誰が話しているのかについては曖昧になっています。これは英語でも同様です(I am happy about talking with you))。もちろん、 mi tavla doとしてもOKです。

他に重要な抽象詞として次のようなものがあります: ka...kei (性質抽象詞) si'o...kei (概念抽象詞) ni...kei (量抽象詞) これらの意味については少しややこしい話になるので、また後で(29章)述べることにします。それまでは、これら無しでやりくりしていきましょう。

[注: 以下の話は、頭がこんがらがるかもしれないので、とりあえず覚えておいてほしいことだけここに簡潔にかいておきます。lo se du'u .... kei ku というのは、間接引用に使われます。なぜこれで間接引用に使えるのか気になる人は、以下を読んでください。]

抽象詞の中にはいくつかのsumti位をもつものがあるということは覚えておいて損がないです。たとえば、du'uは次のように定義されます。 du'u = 抽象詞: x1はx2という文で表される{bridi}という命題

x1以外のsumti位はめったに使われませんが、lo se du'u {bridi} kei ku は間接引用をする際にときどき使われます。たとえば、「私は犬をもらったと言った」は、mi cusku lo se du'u mi te dunda lo gerku ku kei ku となります。

cusku x1(者)はx2(内容)をx3(聴衆)にx4(媒体)で表す/言う/表現する gerku x1 はx2(種)の犬

Lojban Lessons - 7章 (NOI)

[注:分かりやすさのため、少し改変している箇所があります。]

 この章では、従bridiのもうひとつの形について学んでいきます。いわゆる関係節です。関係節とは、あるsumtiにいくらか説明を加えるような文のことをいいます。英語では、whichが先行詞の直後にきて、その後に関係節がきます。ロジバンでは関係節が二種類あり、表現の仕方を学ぶ前にこの二つの違いをしっかりと理解することが重要です。 この二つは制限用法と非制限用法と呼ばれます。例を挙げます:「身長2mの弟は政治家です」。これには二通りの解釈があります。ひとつは、何人か兄弟がいて、そのうち身長が2mある弟について話しているという解釈で、もうひとつは弟は一人しかおらず、単に補足情報として身長について述べたという解釈です。

 英語でもこの二つを区別します。最初の解釈が制限用法であり(話題にしている対象を「制限」している)、二つ目が非制限用法です。英語では、文脈や声のトーン、カンマによってこの二つを区別しますが、ロジバンは違います。ロジバンでは構造語poi...ku'oとnoi...ku'oをそれぞれ制限用法、非制限用法に使います。 [注:残念ながら、日本語はこの二つを区別しないので非常に訳し分けにくいです。]

 いよいよロジバンでの例を見ていきましょう。5章で考えた贈り物を食べるというおかしな例文をもう一度みてみます。 noi 非制限用法的関係節を始める (sumtiにのみ係る) poi 制限用法的関係節を始める(sumtiにのみ係る) ku'o 関係節を終わらせる ke'a sumka'i; 先行sumti(noi,poiが係っているsumti)を指す mi citka lo se dunda ku poi ke'a plise ku'o = 「私は林檎である贈り物を食べる」 lo se dunda に対して、 ke'a plise というbridiが係っています。関係節なので、poi ... ku'oで囲んでいます。ke'aはsumka'i(ロジバンの代名詞)の一種で、関係節が係っているsumti(すなわち先行sumti)を表します。 つまり、 mi citka lo se dunda ku lo se dunda ku plise の2つの文が1つになっていると考えることができます。 (厳密には最初のlo se dunda ku と最後のlo se dunda kuがまったく同じものを指しているとは限りませんが、形式的に書くとこうなるということです。)

上の文はこう書くこともできます: mi citka lo se dunda ku poi plise ku'o あれれ、ke'aが関係節内に存在しませんね。これではlo se dunda ku とその関係節の間にどういう関係があるか分からない!と思うかもしれませんが、こういうときのためにある規則を設けています。それは、ke'aが省略されている場合は、空白の(zo'eが入りうる)場所にke'aを想定し、そのあと他の空白をzo'eで埋めるというものです。逆に考えると、ke'aは省略できるのです。

しかし、たとえば、次の文を考えてみましょう。 mi klama lo zdani ku poi mi dunda ku'o mi dunda は lo zdani ku に係っています。ke'aがありませんね。考えられるパターンは2つあります: ① mi dunda ke'a zo'e - 私がそれを何かに与える ② mi dunda zo'e ke'a - 私が何かをそれに与える 文脈的には①が合ってそうです。①②それぞれの解釈で訳してみます。 ①「私は私があげた家に行く」 ②「私は私が何かをあげた家に行く」 ①は単純に私がプレゼントした家に行くわけです。②の解釈はすこし難しいですが、家に対して何かあげた、つまりインテリアグッズを置いたとかを施した家に行くと考えられます(dundaのx3に物を当てはめることができるかどうかは微妙なところですが)。 おっと…、この文では解釈が2つ出てきてしまいました。これは安易にke'aを省略してはいけないということです。あくまで、聞き手にきちんと伝わるならば省略できる、ということですね。

ですが、慣習的には、最初にきた空白にke'aを想定することが多いです。つまり先程の文は①と大体において解釈されます。②を想定してきちんと伝えるためには、 mi klama lo zdani ku poi mi dunda zo'e (ke'a) ku'o といえばいいでしょう。


.ui mi citka lo se dunda ku poi ke'a plise ku'o = 「やった、私は林檎である贈り物を食べる」

制限用法と非制限用法の違いをみるために、もうひとつ例を挙げます: lojbo x1はx2(性質面)に関してロジバン系

mi noi lojbo ku'o fanva fo lo lojbo ku =「私は、ロジバニストなのですが、いくつかのロジバン的言語から訳します。」 今回、miが複数の対象を指すことはないので、私がロジバニストであるという事実は単なる補足情報にすぎません。よって、noi...ku'oがふさわしいわけです。 次の文を訳してみてください: 「私は美しい男といちゃつく」 nanmu x1は男性 melbi x1はx2(審美者)にとってx3(性質)・x4(審美基準)において美しい/綺麗 cinjikca x1はx2といちゃつく、x3(性的特徴)・x4(観察者)を表しながら。

Answer: mi cinjikca lo nanmu ku poi {ke'a} melbi ku'o [注: tanruでもいいのではないかと思うかもしれません。しかし、tanruでは厳密に男が美しいということを表せないということは覚えておいてください(3章)。]

少し専門的な話をすると、lo {selbri} ku はよくzo'e noi ke'a {selbri} ku'oと定義されるのを知っておくと役に立つかもしれません。



Lojban Lessons - 8章 (終端詞の省略)

.au da'i mi djica lo nu le merko poi tunba mi vau ku'o ku jimpe lo du'u mi na nelci lo nu vo'a darxi mi vau kei ku vau kei ku vau kei ku vau

「同胞のアメリカ人が、私が彼に叩かれるのが好きでないということを理解してくれたらなあ」 上の文が理解できるかはともかく(まだ未習事項のことも含んでいるので多分理解できないと思います)、ひとつだけ分かることがあります:より複雑な文法構造を学ぶにつれ、文がku,kei,ku'oといった意味をもたない語で埋め尽くされてしまうということです。

こういった語にはすべて、ある文法構造の終わりを示す役目があります。たとえば、kuは「selbriのsumti化」の終わりを示します。この類の語を「終端詞」といい、ロジバンではfa'orma'oといいます。上の例文ではfa'orma'oを太字にしてあります。

Note: 例文のvauは「bridiを終わらせる」fa'orma'oです。今まで見てきた文にvauがなかったのにはちゃんとした理由があります。あとで説明するので、頭の隅に置いておいてください。

vau fa'orma'o: bridiを締める

ほぼすべての会話や作文において、fa'orma'oはほとんど省略されます。そうすることで文がかなりコンパクトになりますが、ひとつだけ常に心に留めてほしいことがあります。簡単な例として、lo merko ku klamaを考えます。このときkuを除くと、lo merko klamaとなりますが、これはtanru(merko klama)からなる一つのsumtiです。ということは、この意味は「アメリカ人が旅する」ではなく、「アメリカ人旅行者」となります。安易にfa'orma'oを省略すると、文の意味が変わりかねません。こういうわけで、今までfa'orma'oの省略について触れてこなかったのです。

fa'orma'oを省略できるときの規則は実に単純で、少なくとも理論上は次の通りです: 「文法構造が変わらなければ削除してよい」。bridiの最後にくるfa'orma'oのほとんどは省略しても支障ありません。例外は「引用を締める」fa'orma'oとか「入れ子bridiを締める」fa'orma'oのような、省略したら明らか不味そうなものです。こういうわけで、vauはほとんど使われることがなく、次のbridiがくる時には必ず.iを挟むので、どうあれやはりvauは不要となります。しかし、fa'orma'oの直後に心態詞を置き、その構造全体を修飾するという使い方は頻繁になされます。vauを使えば、粗方言い終わった後に心態詞を付け加え、そのbridi全体を修飾することができるのです。

za'a do dunda lo zdani {ku} lo prenu {ku}... vau i'e 「君が人に家を与えるところを見たよ...うん、いいと思う!」 i'e 心態詞: 単純命題感情: 承認 - 保留 - 否認 prenu x1 は人; x1 は人格を有する

fa'orma'o省略の基礎ルールを覚えたところですし、最初に見たあの長ったらしい文からできる限りのfa'rma'oを除いてみましょう。

.au da'i mi djica lo nu le merko poi tunba mi vau ku'o ku jimpe lo du'u mi na nelci lo nu vo'a darxi mi vau kei ku vau kei ku vau kei ku vau

最初のvauはfa'orma'oでない次の語がjimpe、すなわちselbriですから不要となります。1bridi1selbriなのですから、vauは必要でないのです。また、jimpeはselbriとして関係節に入り得ないので(関係節内でも1bridi1selbriです)、ku'oを省けます。同様に、jimpeはle merko poi {...}において第二のselbriになどなれるはずはないので、kuも省けます。さらに、新しいbridiが始まれば否応無しに構造はそこで終わるので、最後にあるfa'orma'oはすべて省くことができます。 結局、修正後の文はこうなります: .au da'i mi djica lo nu le merko poi tunba mi jimpe lo du'u mi na nelci lo nu vo'a darxi mi なんと、fa'orma'oが全部無くなりました!

fa'orma'o省略に関して、cuは強力な武器になります。cuはあなたのロジバンライフを非常に気楽なものにしてくれます。その役目は、selbriとそれより前のsumtiを隔てます。 cuは次にくる語がselbriで、今までの語句は全部終わりますよと知らせてくれる語とも言えます。 cuはfa'orma'oを省くために使えます:先行の語句とselbriを隔てるので、先行の語句に伴うfa'orma'oを省けるのです。

cu 省略可能な印: selbriとそれ以前のsumtiを隔てることにより、先行のfa'orma'oを省略可能にする prami = x1 はx2を愛する djica = x1はx2(事)をx3(目的)のために欲する/求める

lo su'u do cusku lo se du'u do prami mi vau kei ku vau kei ku se djica mi = lo su'u do cusku lo se du'u do prami mi cu se djica mi 「君が私を愛していると言ってくれることは私に望まれている。」または「私は君に愛していると言ってほしい。」 Note: cuは特定の構造を締めくくるわけではないので、fa'orma'oではありません。機能的にはfa'ormaoの代役になれるというだけです。

cuの強みのひとつは、直観的に理解しやすくなるということです。cu自体に意味はありませんが、ロジバン表現の中核をなすselbriがどこにあるかを明らかにしてくれます。あの暴力的なアメリカ人同胞の話に戻ると、jimpeの前にcuを置いても文の意味は全く変わりませんが、より読みやすくなります。

今後、必要であればcuを使い、可能であればfa'orma'oはすべて省くことにします。 省いたfa'orma'oについては中括弧{}で囲むことにします。以下の文を訳してみましょう!

vajni  x1 はx2にとってx3の理由で重要 jimpe x1 はx2(命題、du'u抽象句)が真であると理解する;x3について理解する a'o 心態詞: 単純命題感情: 希望 - 絶望


a'o do noi ke'a lojbo .i'e {ku'o} {ku} cu jimpe lo du'u lo fa'orma'o {ku} cu vajni {vau} {kei} {ku} {vau} 訳せましたか?

Answer: 「私が認めているロジバニストであるあなたがfa'orma'oは重要であることを理解してくれたらと思う」

コラム:ほとんどの人がfa'orma'oの省略に精通しています。これは、fa'orma'oがいかにロジバンを理解するのに重要であるか度々気づかされるからにちがいないでしょう。そのため、Lojban IRC チャットルームではfa'orma'o djedi(終端詞の日)が毎週火曜日にあります。終端詞の日の間は、多くの人がfa'orma'oを一語足りとも省略せずに、非常に冗長な会話に挑戦しています(挫折する人もよくいますが)。



Lojban Lessons - 9章 (sumtcita)

今までに出てきたselbri[注: 厳密にはbrivla、selbriとして使える語]に関しては結構使いこなせているかと思います。しかし、selbri[注:厳密にはbrivla]はまだまだたくさんあり、言いたいことがそのsumti位に存在しないことも多々あります。たとえば、「私はコンピュータを使って翻訳する」は何と言えばいいでしょう?fanvaを使う際に道具のことを言うことはあまりない [注: という風に議論の末結論づけられた]ので、fanvaには「翻訳する道具」に該当するsumti位が用意されてません。心配ご無用、この章ではselbriに新しいsumti位を追加する方法を学びます。

sumti位を追加するためのもっとも原理的な方法は、fi'o SELBRI fe'u を使うものです (fa'orma'oがまた出てきましたね。これはほとんど全く必要ないので、おそらく最も見かけることのないものでしょう)。この二つの語で、lo SELBRI kuと同じように SELBRI を囲みます。fi'o SELBRI fe'u は、囲まれたselbriのx1を引き出します。しかし、fi'o SELBRI fe'u それ自体が(lo SELBRI kuのような)sumtiになるわけではありません。これは「sumtiラベル」を意味するsumtcitaになり、後ろにくっついたsumtiの意味をそのselbriのx1にします。sumtcitaは直後にくるsumtiを取り込みます。sumtcitaは他のselbri[注: 厳密にはbrivla]から、必要なsumti位を輸入する方法とも言えます。

[注: 後で述べますが、今からやるfi'o...fe'uよりも、cmavoの一種であるBAIという語を使うほうが多いです。しかし、BAIはfi'o...fe'uを基盤としているので、しっかり学んでいきましょう。]

Note: ときどき、特に昔の文章にあるのですが、tagやmodalといった用語がsumtcitaに当てられていることがあります。こういうくだらない訳語は忘れてください。ここで正しいロジバンを教えますので。

ただ読むだけでは理解しにくいと思いますが、例をみれば実に単純なものだとわかるかと思います。 skami  x1 はx2(目的)のためのコンピュータ pilno  x1 はx2を x3のために使う

mi fanva ti fi'o se pilno {fe'u} lo skami {ku}{vau} 「私はこれをコンピュータを使って訳す」

pilnoのx2、つまりse pilnoのx1は、誰かに使われる道具というsumti位です。この位置構造がfi'o SELBRI fe'uによって捉えられ、メインのselbriのsumti位に付け加えられ、それがlo skami で埋められています。なお、sumtcitaのアイデアは英語では次のような表現によって訳されます: “I translate this with-tool: A computer”

sumtcitaは常にその直後にあるsumtiをひとつだけ取り込みます。ちなみに、sumtcitaがなす構造はkuで締められます。sumti無しにkuで締められた場合はzo'eが想定されます。 zukte x1はx2(行動内容)をx3(目的/目標)のために意志を以て行為/実行する

fi'o zukte {fe'u} ku lo skami {ku} cu pilno lo lojbo {ku}{vau} = 「(何かが)意思をもって、コンピュータはロジバン的なものを使う」(もしかするとロジバンコンピュータに意思が宿ったということを言っているのかもしれません。とはいうものの、誰が意思をもつのかを明示してはいません。意思があるのはプログラミングをしたプログラマーかも...それだと面白みがないですけれど)

mi jimpe fi lo lojbau {ku} fi'o se tavla {fe'u} mi は何を述べているでしょう? lojbau x1はx2(コミュニティ)で話されるx3という内容を表すロジバン

Answer: 「私は話しかけられる者であり、ロジバンについて理解する」

sumtcitaは直後のsumtiしか取り込まない(selbriは取り込まない)ので、selbriの直前に置くと勝手に構造を締めくくります。これは後の章で重要になってきます。

しかし残念ながら、fi'oは、その柔軟性にもかかわらず、あまり使われません。代わりによく使われるのはBAIです。BAIはロジバンのカテゴリのひとつで、それにはsumtcitaとして振る舞う語が属しています。たとえば、zu'eはzukteのBAI版です。文法的にはzu'eはfi'o zukte fe'u と同じです。よって、上の例文はもっと簡単に書けます: zu'e ku lo skami {ku} cu pilno lo lojbo {ku} {vau}.

BAIには60くらいの語が収録されており、その多くは本当にとても有用なものです。さらに、BAIはSE(se,te,ve,xe)で修飾することもでき、se zu'eはfi'o se zukte fe'u と等しい意味になります。こうしてより多彩なBAIを生み出すことができるのです。

[注: 有用なら紹介してよ!.oi と突っ込みたくなりましたので、ここで私が初期に覚えておくと役立ちそうなものをピックアップしたいと思います。

bau {sumti}という言語で >bangu x1はx2(使用者)がx3(概念/命題/文字列)を表すのに用いる言語

fi'e {sumti}が創って/作成者は{sumti}で >finti x1はx2をx3(目的/機能)のためにx4(既存要素)から創る/著する

ga'a {sumti}から観て/を観察者として  >zgana x1はx2(対象)をx3(方法)・x4(条件)で観察/観賞/鑑賞する

gau {sumti}によって >gasnu x1(者)はx2(事)をする

ka'a {sumti}が行って・来て / 往来者は{sumti}で  >klama x1はx2(終点)にx3(起点)からx4(経路)をx5(方法)で行く/来る

ka'ai {sumti}と共に >kansa x1はx2に、x3(事)において伴う/付き添う; x1とx2は一緒

pi'o {sumti}が使って/使用者は{sumti}で >pilno x1はx2(道具/機械/者)をx3(目的)のために使う/用いる

si'u {sumti}が助けて/補助となって >sidju x1はx2(者)をx3(行動/事)に関して助ける

ta'i {sumti}を方法/手段として >tadji x1(過程)はx2(事)をx3(状態条件)のもと遂行するための方式/方法/用法/手段

tu'i {sumti}を場所として >stuzi x1はx2(物/事)の本質的/恒久的な場所/現場

mu'i {sumti}が動機となって >mukti x1(事)はx2(事)をx3(者)に動機する

ki'u {sumti}が許容する理由となって >krinu x1(事)はx2(事)を許容する理由

ri'a {sumti}を物理的原因として/によって >rinka x1(事)はx2(事)をx3(条件)において引き起こす

この中で特にSEを付けて使われることが多そうなものも挙げておきます。もちろん、BAI類は(使用頻度はどうであれ)すべてSEをつけれます。

te fi'e : {sumti}のために(作成の目的対象)

se ka'a : {sumti}へ(行き先)

te ka'a : {sumti}から(往来の起点)

xe ka'a : {sumti}という移動手段で

se pi'o : {sumti}を使って(道具)

ta'i ma とか tu'i ma とかは英語のhowやwhereに相当します。ただしtu'iは元の語の意味「恒久的な場所」を引き継いでいるので、一時的な場所を表すのには使えません。つまり、建物の場所とか、部屋の位置とかには使えますが、太郎のいるところや失くした鍵の場所などには使えません。 ]




Lojban Lessons - 10章 (PU, FAhA, ZI, VA, ZEhA, VEhA)

 英語話者や日本語話者がロジバンに対して違和感を感じるところといえば、ここまで一度もテンス[注:いわゆる時制]について触れてこずに来れたところでしょうか。多くの自然言語(インドヨーロッパ語族など)と違って、ロジバンではテンスはあくまで「付属品」の立ち位置なのです。mi citka lo cirla {ku} は「私はチーズを食べる/食べた/いつも食べる/ちょうど食べ終わったところだ」のいずれも意味しうるのです。どの意味を取るかは文脈によりますし、日常会話のほとんどにおいてはテンスは全く必要ありません。しかし、場合によってはテンスを明示する必要も出てきます。さらに、ロジバンのテンスは基本的に時と空間を扱うものなので、自然言語のそれとは毛色が少し異なります。たとえば「私は昔働いた」と「私は北の遠いところで働く」は日本語では文法的に異なりますが、ロジバンではどちらもテンスを用いて表現できます。  多くの言語と同じく、ロジバンのテンスの単元はいちばん難しいところかもしれません。しかし、他の言語とちがい、ロジバンのテンスシステムは完全に規則的で、かつ筋の通ったものです。selbriやその他諸々を修飾する方法を学ぶのにそこまで苦労はしませんから、恐れずにいきましょう。

 いや、selbriを修飾すると言いましたが、実はロジバンのテンスはすべてsumtcitaなのです。詳しいことをいえば、テンスは他のsumtcitaと少しだけ違うところがありますが、この違いはそこまで大事でもなく、余力があれば話そうと思います。テンスは他のsumtcitaとほとんどの点で同じで、たとえば、fa'orma'o(終端詞)はkuです。テンスの一部であるPUに属する語がkuで締められるというのが良い例です。テンスsumtcitaには様々な種類があるので、日本人がもっとも親しみやすいであろうものから始めていきましょう。 pu - sumtcita: {sumti} の前に ca - sumtcita: {sumti}と同じ時に ba - sumtcita: {sumti} の後に

これらは日本語の「以前」「今」「以後」のようなものです。しかし実際、二つの出来事が全く同じタイミングで起こることなどありえないですから、caはあまり有用ではありません。しかし、caは少しだけ未来と過去に広がっており、「今付近」くらいのニュアンスを持っています。これは、人間は完全に論理的なやり方では時間を知覚していないからで、ロジバンのテンスはそれを反映しているのです。

Side Note: ロジバンのテンスシステムは相対性理論に基づいているという主張をしばしばみますが、相対性理論は反直観的なものですから、しっかり勉強しないと理解できるものではありません。ですから、ロジバンのテンスを学ぶにはまず相対性理論を学ばなければならないということになります。実際はそういうことはありませんので、この主張はおかしいと分かります。

それでは、「私はここに来た後にこのことを言う(紙を指差しながら)」はどういうでしょう?

Answer: mi cusku ti ba lo nu mi klama ti {vau} {kei} {ku} {vau}

 会話ではふつう、これはどの出来事の後の行動であるかとかをわざわざ言いません。「私はコンピュータをあげた」という文では、その行動が「今」と比べて過去に起こったと推定できますから、sumtcitaに続くsumtiを省略することができます:

pu ku mi dunda lo skami {ku} {vau} やmi dunda lo skami {ku} pu {ku} {vau} 、 より使われる形としては、mi pu {ku} dunda lo skami {ku} {vau}

 このときsumtcitaを埋めるのは暗黙のzo'eであり、これはほとんど常に話者のいる時点/地点と理解されます(これは特に左右を言うときに重要となります)。今とは異なる時点で起こった出来事について話しているとき、テンスがすべてその出来事の時刻を基準に評価されることがあります。テンスがすべて話者の時点を基準にしていることを明示するために、nauはどんなときでも使えます。もうひとつ、別時点を新しい基準にするki というのもありますが、これについては後に触れることにします。 nau: テンスの基準を話者のいる時点/地点に再設定する gugde = x1はx2(要素/成員)・x3(領域)の国

また、mi pu {ku} klama lo merko gugde {ku}{vau} 「私はアメリカに行った」というのは、私が今もアメリカに向かっているわけではないということは示唆せず、ただ過去のとある時点(たとえば5分前)では真であったとしか述べていないことに注意してください。

述べた通り、空間テンスと時間テンスは非常に似ています。前の3つの時間テンスとこの4つのテンスを見比べてみてください: zu'a sumtcita: {sumti} の左に ca'u sumtcita: {sumti} の前に ri'u sumtcita: {sumti} の右に bu'u sumtcita: {sumti} と同じ地点に (caの空間バージョン)

o'o: attitudinal: 複合純粋感情: 我慢 - 寛容 - 怒り

.o'onai ri'u {ku} nu lo prenu {ku} cu darxi lo gerku pu {ku} {ku} {vau} {kei} {vau} はどういう意味でしょう?(最初のkuが省かれていることに注意してください!)

darxi x1はx2(対象本体)・x3(対象箇所)をx4で打つ/叩く

Answer: 「(怒) (何かの、多分私)右に、(何かの出来事)以前に、何かは人が犬を殴る出来事だ」 →「人が私の右で犬を叩いたんだよ!」

テンスsumtcitaが複数ある場合、読む順に処理していくという、「架空の旅」と呼ばれるルールがあり、示唆された時点と地点(デフォルトでは話者のいる時点と地点)から旅が始まり、読む順に旅していくのです。

例 mi pu {ku} ba {ku} jimpe fi lo lojbo fa'orma'o {ku} {vau} = 「過去において、私はfa'orma'oについて理解するだろう」 mi ba {ku} pu {ku} jimpe fi lo lojbo fa'orma'o {ku} {vau} =「未来において、私はfa'orma'oについて理解した」

どのくらい過去(未来)に移動するのかを指定していませんから、基準から見て過去(未来)でさえあれば、どんな時点でもかまいません。

また、時間テンスと空間テンスを一緒に使う場合、常に時間テンスを先に書きます。このルールを破ると、ロジバンが嫌いとする構文的曖昧さが生じてしまいます。

男がたった一分前に犬を叩いたと言うにはどうすればいいでしょうか。zi,za,zuは時間距離(基準からどれくらい離れた時点か)を表し、それぞれ短距離、不定距離(ふつう中間)、長距離を意味します。母音の順がi,a,uであることに注意してください。この順番はロジバンで何回も出てくるので覚えていて損はないです。「短さ」「長さ」は常に文脈に依存します。200年は進化論の話では「短距離」ですが、バスを待つことに関しては「長距離」です。

zi sumtcita: 基準点から時間的に{sumti} 相当の短距離で起こる za sumtcita: 基準点から時間的に{sumti} 相当の不定距離(中間)で起こる zu sumtcita: 基準点から時間的に{sumti} 相当の長距離で起こる

同様に、空間距離はvi,va,vuで表され、それぞれ短距離、不定(中間)、長距離となります。

vi sumtcita: 基準点から空間的に{sumti} 相当の短距離で起こる va sumtcita: 基準点から空間的に{sumti} 相当の不定距離(中間)で起こる vu sumtcita: 基準点から空間的に{sumti} 相当の長距離で起こる

gunka x1はx2(動作/行動)をx3(目的/目標)のために働く/労働/勤務する

次の文を訳しなさい: ba {ku} za ku mi vu {ku} gunka {vau}

Answer: 「遠い未来に、私は遠くで働く」

puやbaを前につけずに単独でzi,za,zuを使うことは滅多にありません。母語では常に未来か過去か特定する必要があるからです。しかし、ロジバン的な思考の持ち主なら、過去か未来か、はたまたその時間距離のほとんどは明らかであり、puやbaは余分なものと考えるでしょう!

方向性sumtcita(pu,ba,ri'uなど)と距離性sumtcitaを言う順番には違いがあります。

複数のテンスがあるとき、左から右へ読んでいき、「架空の旅」をすればよいというのを覚えていますか?ということは、pu zu は「昔」となり、zu pu は「今から遠い未来か過去における過去」となります。最初の例では、puは過去に始まることを示し、zuはそれが長距離であることを示しています。二つ目の例では、zuは今の時点から長距離の点で始まることを示し、puはその地点から過去に遡ることを示しています。ですから、puzuは必ず過去を指しますが、zupuは未来を指すこともあります。このようにテンスsumtcitaが結合する様は、他のsumtcitaと違う点のひとつです。テンスでないsumtcitaは、他のsumtcitaの存在によって意味が変わることがありません。

以前少しほのめかしたように、こういった語はbridiがあたかもある一点の時点/地点にあるかのように表現します。実際は、出来事のほとんどは時間、空間に一定の幅をもって存在します。ここからは、時間と空間の幅を指定する方法を学んでいきましょう。

ze'i sumtcita: {sumti} 相当の短期間にわたる ze'a sumtcita: {sumti} 相当の不定期間(中間)にわたる ze'u sumtcita: {sumti} 相当の長期間にわたる ve'i sumtcita: {sumti} 相当の小範囲にわたる ve'a sumtcita: {sumti} 相当の不定範囲(中)にわたる ve'u sumtcita: {sumti} 相当の広範囲にわたる

一度に6つも...と思うかもしれませんが、母音の順番(i,a,u)、頭文字が同じ(時間テンスではz、空間テンスではv)ということに注目すれば、覚えるのにさほど苦労はしないと思います。

.oi - 心態詞: 苦労・痛み - 喜び

次の文を訳しなさい: .oi dai do ve'u {ku} klama lo dotco gugde {ku} ze'u {ku} {vau}

Answer: 「君はドイツへはるばる長い時間かけて行った、ご苦労だったろうに」

空間テンスに慣れていない人がほとんどだと思いますが、これらは素敵な可能性の道を開いてくれます。たとえば、「あれは大きな犬です」は、ti ve'u {ku} gerku {vau} と訳せます。直訳すると「これは広範囲にわたる犬です」となって、ぎこちない感じがしますが、ロジバンではいたって健全です!

ze'uとその類の語は他のテンスと結合して合成テンスを形成することもできます。ze'uの類を使う際の規則は、それに先行するあらゆるテンスはその過程の(基準点と比較した)端点を表しており、それの後に続くあらゆるテンスは最初の端点を基準とした別の端点を表すというものです。いくつか例を見たほうが分かりやすいでしょう: .o'ocu'i do citka pu {ku} ze'u {ku} ba {ku} zu {ku} {vau} - 「(寛容)君は食べる、それは過去に始まり、長期間を経て、開始点から遠い未来に終わる」 = 「はあ、君は長い間食べてるね」 この2つは対照的です: do ca {ku} ze'i {ku} pu {ku} klama {vau} do pu {ku} ze'i {ku} ca {ku} klama {vau} 前者は、現在にひとつ端点をもち、過去に向かって少し伸びます。後者は、過去にひとつ端点をもち、その時点からその時点(ca)まで(すなわち、過去か未来かにほんの少しだけ)伸びます。

jmive x1はx2(観点/基準)において生きている; x1は生物/生体/有機体

.ui mi pu {ku} zi {ku} ze'u {ku} jmive {vau} はどういう意味でしょうか?

Answer: 「(幸せ)私は少しだけ前から未来か過去(文脈から未来なのは明らか)に向かって長期間生きている」、つまり、「私は若い、そして人生まだまだこれからだ(^o^)」

空間テンスにも同じことが言えます。 [注: mi ca ze'u pu bajra は、「私は今を端点にし、そこを基準に過去をもうひとつの端点にして走る」、つまり、「私は過去から今まで走る」となります。]

.u'e 心態詞: 驚き - 平凡

.u'e za'a {ku} bu'u {ku} ve'u {ku} ca'u {ku} zdani {vau} - どういう意味でしょう?

Answer: 「(驚き)(私は見た)ここから前方への広範囲で、家だ」、つまり「わあ、前方の家は巨大だな!」

この量の多い、文法的にもヘビーなテンスシステムの続きをする前に、知識を定着させるために10分以上、頭をリラックスさせることをおすすめします。歌をうたうとか、クッキーをとてもゆっくり食べるとか…心が休まるならなんでもいいので。



Lojban Lessons - 11章 (ZAhO)

まだロジバンのテンスについて完全に網羅はできていないですが、このタイミングで覚えておきたいテンスがあります。「事象コンツア(event contours)」とでもいうべきもので、今まで見てきたテンスとは異なる観点を表します。さて、それでは始めましょう:[注:従来の文法用語では「相」と呼ばれるもののことです。ここでは相という用語は使わず、「事象コンツア」を使うことにします。]

今までに習ったテンスを使えば、不明瞭な時間軸を想像し、そこに「今」を基準に出来事を置くことができます。しかし、事象コンツアを使うと、出来事がそのプロセスのどの段階にあるのかを表すことができます: 始まろうとするところ、始まったところ、最中、終わるところ、既に終わったところ、などなど。つまり、事象コンツアは、他のテンスで指定された時間の間にその出来事の過程のどの部分が起こっているのかを我々に教えてくれるのです。まずは二、三個テンスが必要ですね:

pu'o - sumtcita: 事象コンツア: bridiは{sumti}の間、まだ起こっていない ca'o - sumtcita: 事象コンツア: bridiは{sumti}の間、最中にある ba'o - sumtcita: 事象コンツア: bridiの過程は{sumti}の間、既に完了している

いくらか例をあげましょう。次の文を訳してください。 .ui mi pu'o {ku} se zdani {vau}

Answer: 「やった、私は家を所有するところです。」

しかし、はてさて、.ui mi ba {ku} se zdani {vau} じゃダメなのか、そっちの方がコンパクトだし、との声もありそうです。未来において家を持っているというのは、現在の所有について何も言及していないことを思い出してください。しかし、pu'oを使えば、現在、家を所有する前にいる、つまり今は家を所有していないということを言えます。 ところで、mi ba {ku} se zdani {vau} とmi pu'o {ku} se zdani {vau} は似たような意味になります。ba'oとpuも同様です。それならなぜ事象コンツアが用意されているのかというと、他のテンスは現在から出来事を見つめるのに対して、事象コンツアはその過程という観点から現在を見つめるからです。

しばしば、事象コンツアは他のテンスに比べてより正確です。いくつかのテンスを結合することによってより一層明確になります。: a'o mi ba {ku} zi {ku} ba'o {ku} gunka {vau} - 「あと少しで仕事が終わるといいな」

出来事の「自然な開始」と「自然な終了」を扱うこともできます。ここで「自然」とはかなり感覚的なもので、自然な終了はその過程の終わるべき/終わってもよい時点を指します。たとえば遅延した電車については、到着が自然な終了の時点より伸びたと考えることができます。未調理なのにテーブルに出された料理は、食べるという過程の自然な開始の時点以前に食べられています。こういった表現は次の語でできます:

za'o - sumtcita: 事象コンツア: bridiは{sumti}の間、いい頃合い(自然な終了時点)を越えてなお最中にある。 xa'o - sumtcita: 事象コンツア: bridiは{sumti}の間、時期尚早に(自然な開始時点以前に)その最中にある。

cidja: x1はx2(摂食者)のための食べ物/食糧/餌 次を訳しなさい: .oi do citka za'o lo nu do ba'o {ku} u'e citka zo'e noi cidja do {vau} {ku'o} {vau} {kei} {ku}

Answer: 「おい、とっくに(驚き)食べ終わってもいいはずなのに、君はまだ食べ続けている。」


上図:ZAhOテンス(事象コンツア)


図の上半分のテンスは一定時間にわたるような段階を、下半分のテンスは瞬間的な段階を示します。

これらのテンスは時間幅のある段階を描写してきました(グラフ上部参照)。しかし、事象コンツアの多くは、開始点のような、段階の瞬間を描写します。caとbu'uがそうであったように、実際はその一点から前後に少しだけ広がっており、正確である必要はありません。

最も重要な瞬間的事象コンツアのうちの二つを挙げます: co'a - sumtcita: 事象コンツア: bridiは {sumti}の間、それの始まりにいる co'u - sumtcita: 事象コンツア: bridiは {sumti}の間、それの終わりにいる。

さらに、プロセスが完了してもよさそうな時点(必ずしもそこで終わるわけではない)があります: mo'u - sumtcita: 事象コンツア: bridiは {sumti}の間、自然な終了時点にいる

そうはいっても、ほとんどは実際自然な終了時点で終わります。そりゃ、そこが終わるのに尤もな時点なわけですから。電車はふつう遅れないし、人はふつう食べられるものだけを食べるように自らを躾けます。

プロセスが中断したり再開したりすることもあるので、こういった点に対応する事象コンツアもあります: de'a - sumtcita: 事象コンツア: bridiは {sumti}の間、中断している di'a - sumtcita: 事象コンツア: bridiは {sumti}の間、再開している

実際、jundiは「x1はx2に注意する」という意味ですから、de'a jundiとdi'a jundiは「すぐ戻ります(Be Right Back)」と「ただいま(back)」に対するロジバンの一般的な表現です。もちろん、事象コンツアそれ自体のみを言って、そういう意味に理解してもらうことを望むこともできます。

最後に、co'iを使って、事象全体を一点として扱うこともできます。

penmi : x1はx2にx3(場所)で会う

mi pu {ku} zi {ku} co'i {ku} penmi lo dotco prenu {ku} {vau} - 「ちょっと前に、私はドイツ人に会うという時点にいた。」


Lojban Lessons - 12章 (命令と質問)

ふう、ヘビーな二つの章のせいで頭が重たくなっているかもしれません。英語や日本語とはかなり毛色の異なるものでしたから。今回は軽めにいきましょう: 命令と質問です。

英語で命令するには主語を削除すればいいので、ロジバンも然りと思いたいところです。英語では、命令は常に聞き手になされるという発想があるので、主語が不要なのです。

残念ながら、ロジバンでは主語を削除するとzo'eが想定されてしまうので、英語のようにはいきません。代わりにdoの命令形であるkoを使います。構文論的には、koはdoと同じですが、koのある言明はすべて命令となるので、意味論的に簡潔になります。「この文が真になるようにしろ!」英語で主語がいらないのと同じ理由で、二人称以外への命令形の語は不要です。

ある人に遠くへ長時間行けと命令するにはどうしますか?(selbriはklamaです)

Answer: ko ve'u ze'u klama (.i za'a dai a'o mi ca co'u ciska lo fa'orma'o .i ko jimpe vau .ui) - ciskaを調べて訳してみてください。

疑問文はとても簡単で、二種類に別れます: 穴埋めと、真偽の問いです。まずは真偽の問いから始めましょうか。出てくるのはxuだけですので、楽勝です。 xuは文のどこにでも置けるという点では心態詞に似ており、直前の語句に係ります。[注:というか、xuはれっきとした心態詞です。]そして、文を疑問文に変え、その真偽を問います。答えるときは、そのbridiを繰り返して言います: xu ve'u zdani do .i ve'u zdani mi もしくは、そのselbriだけを繰り返します(つまり、sumtiとテンスをすべて省略したものを繰り返すのです)。: zdani

brika'iを使う答え方はもっと簡単ですが、後でお話しします。「いいえ」とか「偽です」と答えるには、bridiの否定形を答えればいいです。これも後で話しますので、ひとまず質問の仕方に戻ります。

もうひとつが穴埋めです。そのbridiが正しくなるような句に疑問語を置き換えるよう要請します。これにはいくらか種類があり、尋ねたい事柄によって使い分けます。 ma - sumti 疑問 mo - selbri 疑問 xo - 数 疑問 cu'e - テンス 疑問

使い方はどれも同じです。sumtiを尋ねるには、答えの欲しいところに疑問語を置けばいいのです: do dunda ma mi - x2を正しい語句で埋めよということで、「君は何を僕にくれるの?」となります。sumtcita + maの形はとても使えます:

mu'i - sumtcita: {sumti}(抽象句)によって動機付けられた

.oi do darxi mi mu'i ma - 「おい、なぜ私を叩いた?!」

もうひとつやってみましょう。今度は、みなさんの番です: .ui dai do ca ze'u pu mo

Answer:「幸せそうだな、今までの長い間、君は何していたの?」厳密には、これは「君は何ですか?」という意味にもなりますが、.ua nai li'a remna (わお、どう見ても人間だよ)と答えるのは相手をイライラさせるだけです。

声のトーンや文構造だけではそれが質問かどうかはっきりわからないので、疑問語を聞き逃してはなりません。それゆえ、人は文頭か文末の語により集中することを踏まえて、疑問語がその位置にくるように文を並び替えるのはある程度価値があります。それが実行できない場合は、その文が疑問文であることを印す心態詞pauを使うといいでしょう。 反対に、paunaiはそれが修辞的な疑問文であることを示します。

疑問文の話をしているので、ついでにkauについて話します。これは「間接疑問」のマーカーです。 じゃあ、間接疑問とはなにか?えっと、次の文を見てください: mi djuno lo du'u ma kau zdani do - 「私は何が君の家なのか知っている」

djuno x1はx2(命題)・x3(題目)をx4(認識体系)で知る

これをma zdani doという疑問文の答えと考えることもできます。滅多にしないですが、非疑問語にkauをくっつけることもでき、この場合、それが問いの答えであると想像できます。: mi jimpe lo du'u dunda ti kau do - 「私は、君が何をもらったのか知っている、それはこれだ。」


Lojban Lessons - 13章 (形態論と品詞)

重たい(かつ興味深い)話題に戻りたいと思います。

まだ見ていないのであれば、「Story Time with uncle Robin」と呼ばれるロジバンのレコーディングを見つけるか、誰かがロジバンをつぶやくのを聞いて発音の練習をするのを強くお勧めします。頭の中でロジバンで独り言を言うのは、発音がすべて合っている自信ができてからやってください。概して、テキストで発音について学ぶのは厳しいものです。ですから、いかに大事であろうと、この講座では音韻論を取り扱いません。しかし、ここで軽くロジバンの形態論について紹介しようと思います。 [注:youtubeで「ロジバン」「lojban」と検索すれば、いろいろと出てきます。また、日本語でのロジバン音声講座がguskantさんによって公開されています。]

形態論とは何でしょう?この言葉は「形の研究」を意味するギリシャ語からきており、今回の場合、文字と音からどのようにして単語が作られるかについての話です。対照的なのは統語論で、これは単語からいかにして文が作られるかという話です。ロジバンは形態論的に分けられた単語のカテゴリを扱い、これはその形態からすべて定義されています。系統的にするため、特定の機能をもつ単語はできるだけ形態別にグルーピングされていますが、例外もあります。

品詞 意味 定義 典型的な機能

brivla bridi語 最初の5文字('は除く)に連続子音。母音で終わる。 既定ではselbriとして働く。必ず位置構造をもつ。 -gismu 根語 CVCCVかCCVCVの5文字からなる。 1~5つのsumti位をもつ。基本的な概念を網羅。 -lujvo 合成語。 名前の由来は"lujvla"「複合語」。 最低6文字以上。rafsi(とその他必要な文字)を繋げて作る。 gismuより複雑な概念を網羅。 -fu'ivla 借用語 brivlaのうち、gismuやlujvoの定義に該当しないもの 例)angeli 地名や有機化合物名といった独特の概念を網羅。 cmevla 名前語(cmeneとも) 初めと終わりが小休止(ピリオド)。最後の音/文字は子音。 常に名前や引用内容として働く。 cmavo 文法語。名前の由来は"cmavla"「小さな語」。 連続しない子音で始まり、母音で終わる。 様々な文法的な機能をもつ。 ※ rafsi 接辞 CCV, CVC, CV'V, -CVCCV, -CCVCV, CVCCy-, CCVCy- ちゃんとした語ではなく、lujvoを作るために使われる。


cmevlaは、初めと終わりが小休止(筆記ではピリオド)になっており、最後の文字は子音なのでとても見分けやすいです。cmevlaは名前として以外に機能を持ちません。逆に言えば、brivlaでない名前や引用語はすべてcmevlaです。アクセントのくる文字を大文字にすることもできます。cmevlaの例を挙げておきます: .iohAN.(Johan、hは大文字のアポストフィー)、.mat.(Matt)、.lutciMIN.(Lui-ChiMin)。子音で終わらない名前は子音を一文字加えてやるか語尾の母音を削除する必要があります: .ivyn.(Eve)または.iv.

brivlaは、そのままでselbriになることから、"bridi語"とも呼ばれ、それゆえ位置構造を有するほとんどすべてのロジバン単語はbrivlaとなります。また、brivlaは別名「内容語」とも言われます。brivlaなしに有用なことを言うのは不可能に近く、文法外の概念のほとんどすべての語は(文法用語のほとんどさえも)、brivlaによってとらえられます。表でみたように、brivlaはさらに3つのカテゴリに分類されます: gismuはロジバンの根源的な語です。1450ほどしかなく、ほんの少しだけ新しいものが加わっています。gismuは「円」「友達」「木」「夢」といった最も基本的な概念をカバーしています。zdani, pelxu, dundaもgismuのひとつです。 lujvoはgismuを表すrafsi(後述)を繋ぎ合わせることで作られます。rafsiを繋ぎ合わせることで、語の意味を狭めることができます。lujvoは入念なアルゴリズムによって作られるので、何もなしにlujvoを作るのは不可能に近いです(いくつか例外もあり、たとえばse prami由来のselpa'iなど、元々一義的なものであれば作ることができます)。その代わり、一旦lujvoが作られ、位置構造が決まると、その定義が公式の辞書に載ります。cinjikca (性的な-社交 = 夜遊びする) や cakcinki (殻-昆虫= カブトムシ)などがあります。 fu'ivlaはlujvoやgismuでは定義できない語を補完するために作られ、種の名前や国名、非常に文化的な特有の概念といったものをカバーしています。たとえば、gugdrgogurio (韓国) 、cidjrpitsa (ピザ) 、angeli (天使)などがあります。

cmavoは二個以上の子音を持たない小さな語です。これはふつう外界のことを何も表さず、文法的な機能のみを備えています。例外はありまして、心態詞がどれほど文法的機能のためにあるのかというのは議論の的です。もうひとつの奇妙な例外は、brivlaとして働くGOhAの語です。連続する一連のcmavoは一語として書くことが許されていますが、この章では別々に書くことにします。しかし、機能的に似た語はひとつにまとめてしまったほうが読みやすいです。ということで、.uipuzuvukumi citka と書くのは許されており、構文解析可能で .ui pu zu vu ku mi citka と理解されます。 他のロジバン単語のように、あるcmavoでは母音で始まる単語の前に小休止を置いたほうがいいです(しかし常にではありません)。 xVV,CV'VV,V'VVの形のcmavoは実験的なものであり、公式文法にはありませんが、ある要求に答えるためにロジバン使用者によって追加されてきたものです。

rafsi は単語ではなく、それ単独で現れることはまずありません。しかし、いくつか(二つ以上)のrafsiは結合してlujvoを形成します。これらはbrivlaの定義に応えていなければならず、たとえば、lojbanは子音で終わるので(子音で終わるのはcmevlaです)ダメで、ci'ekeiは連続子音をもたず、2つのcmavoが一単語で書かれているとみなされるのでダメです。しばしば、3,4文字の文字列はcmavoでもrafsiでもあるものがあります。たとえばzu'eはzukteのBAI形でもrafsiでもあります。文中で、その語がcmavoでもrafsiであっても文法的に正しいようなときはないので、これらは同音異義語とはみなされません。すべてのgismuそのものの形やgismuの頭4文字+yは、他のrafsiの前につけるときはrafsiとして働きます。なお、yはlujvoやcmevlaにのみ現れます。有効なrafsiの文字列は次の通りです: CVV, CV'V, CCV, CVCCy- CCVCy-, -CVCCV ,-CCVCV

今の知識で次の問題に答えられるはずです: 次の語をcmevla (C), gismu (g), lujvo (l), fu'ivla (f) , cmavo (c)に分類せよ。 A ) jai   G ) mumbl B ) .irci   H ) .i'i C ) bostu   I ) cu D ) xelman   J ) plajva E ) po'e   K ) danseke F ) djisku   L ) .ertsa


Answer: a-c, b-f, c-g, d-C, e-c, f-l, g-C, h-c, i-c, j-l, k-f, l-f. 問題が簡単になりすぎないようにcmevlaのピリオドは抜きました。 Note: これらの単語の中には、bostuのように、辞書に載っていないものもありますが、これは見当違いです。形態論的にはそれは立派なgismuですので、単にまだ定義されていないgismuなだけです。.ertsaも同様のことが言えます。


Lojban Lessons - 14章 (sumti その1: LE と LA)

これまでの章すべての内容を読んで理解したなら、残りの内容を学ぶのに困らないほどにはロジバンの十分広い知識を得られています。結果として、ここからの章の構成は学びやすい順に、日常会話で重要な順にしてあります。

今ロジバンを話す上でもっとも必要に迫られることのひとつに、sumtiの作り方における知識があります。今のところ、tiとlo SELBRI しか知らず、これではいかにsumtiが大事であっても実感がないでしょう。この章とそれに続く2章はsumtiについてです。まず、描写sumti(loのような冠詞を伴うもの)に焦点を当てます。冠詞はロジバンではgadriといい、この章で議論する内、 la CMEVLA, lai CMEVLA , la'i CMEVLAを除いたすべてのものが終端詞kuで締められます。

描写sumtiの単純な3種類からはじめますが、すぐにそれらがそんな単純なものではないと分かるでしょう: lo - gadri: 総称的現実性sumti化。個群は曖昧. le - gadri: 総称的記述性sumti化。 個群は曖昧. la - gadri: 名称冠詞: 通例、selbriやcmevlaをsumti化する。個として扱う。

loとその機能についてはもういいですね。しかし、「現実性」と「個群が曖昧」とはどういう意味でしょうか。個と群については後で触れるとして、「現実性」について触れることにします。「現実性」とは、lo klamaと記述されるには実際にそれがklamaでなければならないということです。ということで、現実性gadriは真偽のある主張 -- 当該の対象が実際にloの後にくるselbriのx1であるということを主張しているのです。

これはle(記述性)と対照的です。もしあなたがle gerkuと言うとき、一匹またはそれ以上の特定の対象を心に浮かべ、聞き手がそれを同定できるようにselbri、gerkuを使って記述したということをle gerkuは示しています。つまり、leにはloと二つの重要な違いがあります: ひとつに、leは一般的な実体を参照することはできず、常に特定の実体を参照します。もうひとつに、lo gerkuは絶対に一匹かそれ以上の「犬」であるのに対し、le gerkuは「現実性」ではないので、その記述が、正しい対象を同定するのに役立つと話者が思ったものであれば、何でもあり得ます。もしかすると、話者はハイエナを指しているが、それについて馴染みがなく、「犬」という表現が妥当と考えたのかもしれません。この空想な感じはほとんどの文章では必要ないかもしれません。結局、犬を記述したいのであれば、それを犬と記述する(lo gerku)のがいちばんよいのであって、そのような記述ができない正当な理由がない限り、le gerku はlo gerku(現実の犬)でもあるようなものを指しているとたいていみなされます。 訳の上では、lo gerkuはふつう「犬(a dog)」「何匹かの犬(some dogs)」であり、le gerkuは「その犬(the dog)」「その犬ら(the dogs)」となります。le gerkuのよりよい訳は、「その犬(たち)」、つまり単数でも複数でもある感じ、でしょう。

三つの基本的なgadriの最後は、la、名称gadriで、私は「慣例的(conventional)」と勝手に呼んでいます。この意味するところは、それがれっきとした名前を指すことから、記述的でも現実的でもないということです。もし、彼女の名前の感じから「無垢」と呼ばれる子を指すとき、彼女を「無垢であるようなもの」と記述することも「無垢である」と述べることもしません。ただ慣例に従って彼女を「無垢」と述べているだけであり、その対象はそういったselbriやcmevlaによって指されているだけのです。laとそれ由来のgadriはcmevlaを他のgadriとは違う風にsumtiへと変換することができます。ここで、他の多くのテキストでは、名前はlaを使うことで普通のselbriからも作れることに触れてないことに注意してください。そういった異端書は燃やされなければならないでしょう。というのも、selbriの名前を誇り高いロジバニストの多くが持っているからです。 la、lai、la'iは常に名前の開始点を示すので、少し風変わりです。他のgadriと違って、laとその類の後ろに文法的に正しく置かれた語はなんでも、名前の一部とみなされます。たとえば、le mi gerkuは「私の『犬』」ですが、la mi gerkuは「『私の犬』」なのです。

これら三つのgadriはさらに三つのgadriに拡張されますが、それぞれ以前のものと対応しています。

loi - gadri: 現実性sumti化。群を扱う。 lei - gadri: 記述性sumti化。群を扱う。 lai - gadri: 名称冠詞。群を扱う。

これらは一点を除くすべての点で同じです: そのsumtiを明確に群として扱います。当該の対象がひとつだけしかない場合は、それで構成される個も群も同等なものです。この両者の違いは、selbriを個のグループと群のグループのどちらに帰するかにあります。

そのグループの全員それぞれがそのselbriにふさわしければ、またそのときに限り、個のグループはそのselbriにふさわしいと言えます。たとえば、lo gerkuのまとまりを個で考えるとき、それぞれがみな黒色なら、そのまとまりを黒いと表すことは正しいことになります。一方で、その構成員が全体として、いわばチームとしてselbriにふさわしければ、その群はそのselbriにふさわしいと言えます。しかし、loi gerkuという群のメンバー全員、loiが適用されているので、犬でなければなりません。群の発想は洗練されているので、いくつか例をみて群か個か見分けてみることにしましょう。

sruri: x1はx2をx3(方向/次元/面)に関して包囲する/取り囲む

lei prenu cu sruri lo zdani - 「その人々は家を取り囲んだ。」

これは正しい文です。影分身の術は置いといて、メンバーのそれぞれが独りで家を囲むことなどありえないですから。日本語で例を出してみます: 「人間たちは20世紀に天然痘に打ち勝った」。人間の誰ひとり天然痘を負かしてはいませんが、人間たちという群は打ち勝っており、その意味で日本語の文も意味をなします。なお、ロジバンの群と同じく、日本語の群「人間たち」はそれぞれは人間であるような個しか指していません[注:たとえばその中に兎はいない]。もうひとつ例を見ましょう:

mivysle : x1 はx2(有機体)の細胞 [注: ji'esleも細胞という意味で、かつこっちのほうが発音しやすいです。 どちらを使っても構いません。ここでは原文に則りmivysleで通します。] remna : x1 は人間

loi mivysle cu remna - 「細胞のかたまりは人間である。」

細胞それぞれはどれも人間ではありません。実際、細胞は人間の特徴のほんの少ししか呈していませんが、全体としては人間を構成するとみなされます。

leiで作られる群(lei gerkuなど)は、そのそれぞれを話者がle gerkuとして指すような特有の個のグループによって形成される群を指します。

laiによって表される群名は、そのグループが全体としてそう名付けられているときに適切であって、メンバーそれぞれがそういう名前であるときではありません。しかしながら、そのbridiがそのグループの一介に対してのみ真であるときに使われることがあります。

loとleは個と群どちらを表すのにも使えることは覚えておくといいでしょう。「犬のまとまり」を記述する必要があるとしましょう。そのまとまりをlo gerku かloi gerku のいずれかで表現すると思います。loを使うと、一見矛盾なことを正しく述べれてしまいますが、実際はそうではありません。 lo gerku na gerku - 「複数の犬は犬でない。」 それは犬の群としてみなされているのですから、その「たくさんの犬」は全体としては「犬」ではなく、「犬のまとまり」であるわけです。さて、selbriを明確に個に変換する語がないことに気がついたかもしれません。個であることを明白にするためには、lo, le, laに外部量化詞をつける必要があります。量化詞の話題はあとでとりあげます(22章)。なぜ、loとleは曖昧で、明確に個を表さないのでしょうか。それは、曖昧にしておくことで、話者がそのsumtiが群なのか個のグループなのかを考える必要なしに、どんな文脈にでもloやleが使えるからです。

このシリーズの3番目は、集合を形成するgadriです。

lo'i - gadri: 現実性sumti化。集合として扱う。 le'i - gadri: 記述性sumti化。集合として扱う。 la'i - gadri: 名称冠詞。集合として扱う。

個のグループ(たまに群)と違って、集合はその構成要素由来の性質をもちません。集合は純粋数学や論理学の構成物であって、濃度、メンバーシップ、包含関係といった性質をもちます。またもや、集合とその構成要素の間の違いに注意してください。 [注: たとえば、loi mivysle (細胞の群れ)は「細胞である」という性質を持っていますが、lo'i mivysle(細胞の集合)にはそのような性質はありません。] [注: ロジバンの集合は数学で扱われる集合のことだと書きました。ですから、集合は濃度、メンバーシップ、包含関係といった性質をもつとも書きましたが、もちろんこれだけに留まりません。元と元の間にある関係も集合の性質です。たとえば、細胞の集合が、細胞間の関係として「ヒトである」という性質をもつこともできるのです。 大事なのが、群れと集合では「部分」の具合が異なってくるということです。細胞の群れは所詮ただの細胞の集まりですから、その部分をとってきてみるとやはりそれは細胞の群れです。一方で、細胞の集合は、「ヒトである」という性質をもっていたとすると、その部分をとってきてみてもそれはもうヒトではありません。手だとか、心臓だとかになります。つまり、また別の意味をもった集合となるわけです。]

tirxu :x1はx2(種類)・x3(模様/柄)のトラ/ヒョウ/ジャガー

lo'i tirxu cu cmalu は、その大型ネコが小さいかどうかについて述べているのではなく(ところでこれは明らか偽ですね)、その大型ネコの集合が小さいということ、つまり、トラの数が少ないということを述べているのです。

最後に、(2つだけ)一般化gadriを紹介します: lo'e - gadri: 現実性sumti化。 sumti はlo {selbri} の典型的な姿を指す。 le'e - gadri: 記述性sumti化。sumti はle {selbri} の記述/認知されている典型的な姿を指す。 laに対応するものは無い。

さて、「典型的な姿」で何を言えるのでしょう?lo'e tirxu は、理想的な、想像される大きいネコであり、一般化された大きなネコがもつ全ての性質を持っています。大きなネコの集合のメンバーを構成要素とする大きい統合的な部分集合は縞模様の毛皮を持っていないので、lo'e tirxuは縞模様の毛皮を持っているというのは誤りです。同様に、典型的な人間というのは、人類の大部分がそうであるからといって、アジアに住んでいるわけではありません。しかし、十分多くの人間がある特徴を持っているのであれば(たとえば、会話能力など)、こう言うことができます:


kakne: x1はx2(事)がx3(条件)においてできる; x1は有能 lo'e remna cu kakne lo nu tavla - 「典型的な人間は話すことができる。」

それから、le'eは話者によって認知/記述されるような理想的実体です。これは現実に正しい必要はなく、しばしば「偏見」と訳されます(日本語だと「偏見」という言葉は悪い印象がありますが、ロジバンのle'eに悪い印象はありません。実際、どんなカテゴリに対しても偏見的で典型的なイメージというのを人は誰しも持っています。言い換えれば、lo'e remna はすべてのlo remnaを一般化したものであり、一方でle'e remnaはle remnaを一般化したものです)。

以下に11個のgadriをまとめておきます。

  総称的 群 集合 一般化 現実性 lo loi lo'i lo'e 記述性 le lei le'i le'e 名称 la lai la'i 無し


[注:現実性、記述性、名称はそれぞれ、「客観系」「主観系」「あだな系」と呼ばれることもあります。]

Note: 以前まで、総称的gadriとしてxo'eがありましたが、2004年にgadriの規則と定義に変更があり、現行のものとなりました。今は、loが総称的gadriであり、xo'eは省略桁として使われています。



Lojban Lessons - 15章 (sumti その2: KOhA3、 KOhA5、KOhA6)

次の文を訳すことにしましょうか:「(私の思う)典型的なロジバン話者というのは、自分の話せる言語について互いに話しだす。」

bangu: x1はx2(使用者)がx3(概念/命題/文字列)を表すのに用いる言語; x2はx1語を話す

le'e prenu poi ke'a kakne lo nu tavla fo la .lojban. cu tavla le'e prenu poi ke'a kakne lo nu tavla fo la .lojban. lo bangu poi lo prenu poi ke'a tavla fo la .lojban. cu se bangu ke'a

…日本語の文に比べて長いですね!これはなぜかというと、ロジバンの文ではばかばかしいほどに長いsumtiが文中に2回以上出てきているのに対し、日本語の文では「お互い」とか「自分の」とかを使ってそれを指しているからです。これは非常に効率的ですね。ロジバンにもこれと同じようなメカニズムは無いのでしょうか?

驚くことなかれ!ロジバンにも「代sumti」という意味のsumka'iと呼ばれる一連の単語があります。代名詞とsumka'iは似たような機能をしているので、日本語で代名詞を使うように、あるsumtiを指すためにsumka'iを使えばよいのです。実際、tiやdo、miを既に知っていると思いますが、もっとたくさんあるので学んでいきましょう。まず、今まで習ったものを体系的なものにしたいですね。日本語でも馴染み深いものから始めましょう。:


ti - sumka'i: 直近のそれ: 話者から物理的に近いsumtiを表す。 ta - sumka'i: 近くのそれ: 聞き手に近いか、話者から物理的にいくらか離れたsumtiを表す。 tu - sumka'i: 離れたそれ: 話者と聞き手から物理的に遠いsumtiを表す。

ここでも「i a u」の並びが見られますね。いくつかはっきりさせておく必要があるかもしれません。まず、これらのsumtiは物理的空間を占めると思われるものなら何でも表すことができます。実体は表せますが、概念は表せません。出来事は表せますが、ある程度の特定の場所に限られます -- ジャスミンの進化は指し示せませんが、バーでの喧嘩とかキスしたこととかは表せられます。次に、距離は絶対的なものではなく、あるモノとモノの相対的な距離であることに注意してください: tu は話者とも聞き手とも離れているのであれば、どんな距離であっても適用できます。話者と聞き手が遠く離れていて、聞き手が話者の話していることが分からない場合でも、taは聞き手に近いものを指します。3つ目に、これらの語はすべて相対的で、文脈に依存します。たとえば、書かれた文だと話者と聞き手の位置がお互いに分からず、さらには時間が経つにつれ変わっていくため、問題が生じます。 さらに、本を書くとき、あるものをti、ta、tuで指すことはできず、何を指しているのかきちんと表現しなければなりません。

それから、miとdoの属しているKOhA3と呼ばれるシリーズがあります(koも属していますがここでは書きません):


mi - sumka'i: 話し手(単複) mi'o - sumka'i: 話し手(単複)と聞き手(単複)の群 mi'a - sumka'i: 話し手(単複)と第三者の群 ma'a - sumka'i: 話し手(単複)と聞き手(単複)と第三者の群 do - sumka'i: 聞き手(単複) do'o - sumka'i: 聞き手(単複)と第三者の群

これら6つのsumka'iはベン図を書くと、より分かりやすくなります。


KOhA3のベン図(koを除く)。le drataはKOhA3ではないが「第三者(単複)」を意味する。


彼ら全員の代表としてある言明がなされたなら、それは複数人が「話し手」になることになります。それゆえ、「我々」という言葉はmi, mi'o, mi'a, ma'aのいずれかに訳されますが、大体miでいけます。この6語はすべて、2つ以上の個を指すとき、群を表します。bridiの論理上、Aさんが言ったmi glekiと、BさんがAさんに言ったdo glekiは全くもって同等のもので、同じbridiとみなされます。このことについてはまた後で、brika'i(代bridi)の章でやりましょう。

これまでのsumka'iはなかなか適用範囲が狭く、例えば、この章の冒頭にやった文に関しては役に立ちません。次にするシリーズは原理的にはどんなsumtiも指すことができます:


ri - sumka'i: 直前のsumti ra - sumka'i: 最近だが直近ではないsumti ru - sumka'i: かなり前のsumti

これらのsumtiは、他のsumka'iのほとんどを除く既に言い終えられたsumtiを参照します。他のsumka'iのほとんどを参照できない理由は、単にそのsumka'iを繰り返したほうが簡単だからです。例外はti, ta, tuで、これらについては位置関係が変わってしまって単に繰り返すだけではいけない可能性が生じるからです。ri, ra, ruは既に言い終えられたsumtiのみを参照するので、たとえば自身が内包されている抽象句を指すことはできません。: le pendo noi ke'a pendo mi cu djica lo nu ri se zdani - この場合、抽象句は終わっていないので、riはそれを参照できませんし、sumka'iであるmiとke'aも参照できません。なのでri はle pendoを指します。 raとruがどれを参照するかは文脈によりけりですが、上で述べたルールに従って、ruは常にraよりも離れたsumtiを参照します。

ri、ra、ruは冒頭の文をシンプルにするのにうってつけです。sumka'iを2個用いてやってみましょう!

Answer: le'e prenu poi ke'a kakne lo nu tavla fo la .lojban. cu tavla ru lo bangu poi ru cu se bangu ke'a ri を使ってしまうと、la .lojban. を指してしまうので不適当です。raは使えますが、lo nu tavla fo la .lojban. を指していると誤解される可能性があります。一方ruは一番離れたsumtiを指すと想定されるので、最も外側のsumtiを参照できます。

最後に、発話を表すsumka'iがあります。なので、これらは発話変項などと呼ばれたりします。文脈が許せば、1文(jufra)に限らず、複数の文を参照することもできます。:

da'u  発話変項: かなり前の文 de'u  発話変項: 最近の文 di'u  発話変項: 直前の文 dei  発話変項: この文 di'e  発話変項: 次の文 de'e  発話変項: 近い未来の文 da'e  発話変項: かなり未来の文 do'i  発話変項: 省略発話変項: いくつかの文

これらは文をsumtiとして表し、実際に話された言葉や文字のみを参照し、それらの裏に隠された意味は参照しません。

sumka'iはまだまだありますが、ここで一旦休憩しましょう。次の章は派生sumti、他のsumtiからなるsumtiの話になります。


Lojban Lessons - 16章 (sumti その3: 派生sumti)

le bangu poi mi se bangu ke'a は「私の言語」の拙い表現です。実際、かなりくどい表現です。「私が話す言語」は bangu mi というbridiのx1に相当します。しかし、bangu miをgadriを使ってsumtiに変換することはできません。: bangu mi はbridiであってselbriではないので、 le bangu {ku} mi は2個のsumtiとなります。le su'u を用いても変換できません。というのも、su'uはそのbridiに新しいx1を与えて、抽象句にし、それをleが抽出するからです。結局、「何かが私の言語であるということ」というようなことを意味する抽象sumtiが出来上がってしまいます。

beを導入しましょう。beは句(sumtiやsumtcitaなど)をselbriに結合させる語です。普通のselbriに使っても何の効果もありません: mi nelci be do ではbeは何も仕事をしません。しかし、sumtiがこのようにしてsebriにくっつけられているときは、sumtiを引っぺがすことなしにgadriを使ってsumti化できるのです。つまり、le bangu be mi はさっきの問題への正しい解決策となるのです。同様に、sumtcitaを付けることもできます:le nu darxi kei be gau do - 「殴るという、君によって起こされた出来事」。keiの有無で構文解析が異なることに注意して下さい。fa'orma'oがあると、beはnuに係り、fa'orma'oがないと、beはdarxiに係ります。これによって、何が強調されているのかが決まります: 君が起こしたのは殴ることなのか、殴るという出来事なのか? しかし、この場合に限っては、どちらも大体同じ意味になります。

では、複数のsumtiをselbriにくっつけてgadriで囲みたいときはどうすればいいでしょう?「あなたへのその林檎の贈与者」は le dunda be lo plise be do でしょうか?いいえ、違います。二番目のbeはpliseに係り、le plise be do - 「君という種の林檎」と意味不明になります。複数のsumtiをselbriに繋ぐためには、2つ目以降のsumtiをbeiで結びつける必要があります。その「繋がり」は、be'oで締められます。まとめておきましょう:

be sumtiやsumtcitaをselbriに繋ぐ bei 2つ目以降のsumtiやsumtcitaをselbriに繋ぐ be'o  selbriへの繋がりを終わらせる

[注:結局beは、lo SELBRI poi ke'a SELBRI sumtiA = lo SELBRI be sumtiA とします。]

sumtiを別のsumtiと緩く関係づける方法もあります。peとneはそれぞれ制限用法的、非制限用法的な関係を示します。 実際、 le bangu pe mi は「私の言語」のよりよい訳です。というのも、この句は、日本語と同様、その2つがどういう関係にあるかについて曖昧だからです。

pe とne は緩い関係性(あなたが座る椅子について「私の椅子」という風に)だけに使われます。実際にはあなたの所有物ではなく、君と何らかの関係があるだけです。もっと密接な関係を表すにはpoを使います。これは、ある一人の人間に独特に関係づけます(実際あなたが所有する車に対して「私の車」という風に)。最後に残るはpo'eで、2つのsumtiの繋がりが先天的であるといった、いわゆる「譲渡不可能」な関係を表します。いくらか例をあげると、「私の母」「私の腕」「私の故郷」などがあります。こういう類の所有が失われることはなく(たとえあなたが自分の腕を切り落としても、それはなおあなたの腕です)、その意味で譲渡不可能なわけです。なんだか厳かですが、大体においてpo'e は適切であり、x1が繋がったものをそのselbriのx2が含むときはbeがベターです。

ne 非制限用法的関係。 「~と関係のある」 pe 制限用法的関係。「~と関係のある」 po 所有関係。 「~に特有な」 po'e 譲渡不可能な関係。「~に属する」

{gadri} {sumti} {selbri} はとても有用な知っておくべき句です。これは{gadri} {selbri} pe {sumti}と同等です。たとえば、 le mi gerku はle gerku pe mi と同じです。描写sumtiを内部に組み込むこともできます。たとえば、le le se cinjikca be mi ku gerku = le gerku pe le se cinjikca be mi = 「私がいちゃついている男の犬」。しかし、あまり読みやすくない(さらには会話だと理解しにくい)ので、しばしば避けられる表現です。

覚えておくと多くの文をより簡単にできるので、tu'aも学んでおきましょう。tu'aは、sumtiをそれと関係のある省略的な抽象句に変換します。たとえば、mi djica lo nu mi citka lo plise というのを、林檎をどうしたいのかを文脈に任せることで、 mi djica tu'a lo plise ということができます。 tu'a SUMTIによって話し手がどんなことを言いたいのかを推測しなければならないので、文脈上それが明らかで簡単に分かるときにのみ使うのがいいです。もうひとつ例を出します:

gasnu  x1(者)はx2(事)をする(意志は伴わない)

za'a do gasnu tu'a lo skami - 「私は見たよ、君がコンピュータに何かさせるのを。」 公式では、tu'a SUMTI は le su'u SUMTI co'e と同等です。曖昧ですが、使えます。一見どこでも使えそうですが、tu'aを使えない場合があります。それは、その結果生じるsumtiが抽象句でなく、具体的なsumtiであってほしいときです。この場合、zo'e pe を使います。

tu'a sumtiを、それを伴う曖昧な抽象句に変換する。le su'u SUMTI co'e kei kuと同等。

最後に、ある種のsumtiはLAhEカテゴリの語によって別のものに変えることができます。

lu'a - sumtiを個に変換する。 lu'i - sumtiを集合に変換する。 lu'o - sumtiを群に変換する。 vu'i - sumtiを序列/配列に変換する。 その順序については述べない。

これらは素直に使えばいいです: sumtiの前に置いて、新しい型のsumtiを作るわけです。しかし、注意してほしいのが、4番目の、序列/配列です。これはあまり使われていません(たとえば、序列/配列は自身のgadriを持っていません)が、網羅のため載せておきました。

残る2つのLAhEの語は、sumtiを別の型に変えるのではなく、それを指し示すものを言及することで、そのsumtiについて話すことを可能にするものです: まず、日本語で説明したいと思います。『桃太郎』という本があるとします。このとき、『桃太郎』はその本の題名であって、本それ自体ではありません。つまり、『桃太郎』という文字列が、ある本を指し示しているわけです。これをロジバンでは、la'e 桃太郎 と書きます。これはつまり、「『桃太郎』という本」のことです。 次にロジバンで例を見ていきましょう。mi nelci la'e di'u は「私はさっきあなたが言ったことが好きだ」という意味になります(mi nelci di'u だと「私はさっきの文の文字列が好きだ」になります)。もうひとつ、la'e le cmalu noltru は「『星の王子さま』という本」という意味になり、実際に星の王子さま自身を指しているわけではありません。 lu'e はこの一連の真逆のことを行います。つまり、『桃太郎』という本があったときに、 lu'e 本 は、『桃太郎』という文字列を表します。

la'e - sumti の左に付いて、その sumti の指示対象を引き出す lu'e - sumti の左に付いて、その記号・文字列を引き出す

[注:la'e,lu'eの部分がなんだかわかりにくい内容でしたので、かなり改変しました。]


Lojban Lessons - 17章 (可愛いらしい多彩な語)

前回3章かけて、sumtiについてかなり知識がつきました。そんな長期間の険しい体系的学習の後ですが、ここで、他の章には入りきらなかった/相応しくなかった単語にこの章を割きたいと思うのですがいかがでしょう?とっても小さな、でもとっても使える単語たちを紹介していきます:

次のcmavoは省略語と呼ばれています。zo'eはもう既に親しみがありますね:

zo'e - 省略 sumti co'e - 省略 selbri     do'e - 省略 sumtcita ju'a - 省略 認識系 do'i - 省略 発話変項 ge'e - 省略 心態詞

これらはすべて、それの表す種類のcmavoとして文法的に正しく働きますが、何の情報も含んでおらず、面倒くさかったり、お茶を濁したいときにかなり使えます。しかし、いくつか注意点があります:

zo'e は何か内容のあるものを指し示す必要があります。たとえば、「0台の車」や「無(nothing)」は内容がないので、zo'eでは参照できません。これはなぜかというと、もしzo'eが無を意味するとすれば、削除されたsumtiのひとつを無を示すzo'eで埋めると、どんなselbriもその否定形と同一になってしまうからです。 ge'e は何の感情も抱いていないという意味ではなく、特別述べるような感情を抱いてはいないという意味です。「I'm fine」に似てますね。.ge'e pei は省略心態詞について尋ねており、いい訳し方としては「あなたはどう感じていますか?」となります。 co'e は文法的な事情で句にselbriが欲しいに使えます。似たようなのを前の章でやりましたね(tu'a)。 ju'a は真理値とかbridiの意味合いを変えたりはしません。実際、ほとんど何もしないのです。しかし、ju'a pei 「その根拠は何?」は使いやすいです。 do'i はとても使えます。発話や会話を「これ」や「あれ」で指し示すときに、思わずdo'iを使いたくなるでしょう。 selbriの取りうる位置の数以上のsumtiがある場合、それらの前にはdo'eが想定されています。

さらに、zi'oという、sumti位を消してしまう語があります。たとえば、lo melbi be zi'o はただただ「美しいもの」であり、melbiの通常のx2、それが美しいかを判断する観察者を含んでいません。これはつまり、「客観的に美しい」といった意味になるのです。無が削除されたsumti位を満たしているのではなく、そのsumti位がそのselbriにそもそも無かったことになるということです。sumtcitaにzi'oを使うと妙なことになります。形式的には、それらは消え去り意味がなくなるはずです。しかし実際は、そのsumtcitaは今回関係ないと明確に言っていると理解されるでしょう。たとえば、mi darxi do mu'i zi'o は 「私はあなたを叩く、動機があろうがあるまいが」となります。

それから、jaiという語もあります。これは、理解しにくいが一旦わかってしまうと実にシンプルな働きをするクールで小さな語のひとつです。jaiは2つの使い方がありますが、似たような機能です。どちらも、seのように、selbriを変換することに関係があります。

jai selbri変換: sumtcitaや不特定の抽象句をx1に変換する。faiと共に使う。 fai sumti位を印す。faのような機能。jaiと一緒に使われる。

jaiが活躍する文法構造としてまず、 jai {sumtcita} {selbri} があります。これは、sumtcitaのsumti位をselbriのx1に移動させ、元のx1は取り除かれ、faのような働きをするfaiを使うことによってのみ使用可能にするといったようにsumti位を変化させます。例をみれば理解できるはずです:

gau - sumtcita (gasnu由来) 「bridiは {sumti}(実行者) によってもたらされた」 do jai gau jundi ti fai mi - 「君は私にこれへの注意を払わせる。」

この新しいselbri、jai gau jundi は「x1はx2に払われる注意をもたらす」という位置構造をもちます。それから、doとtiがそこに詰められ、faiが元のx1(注意を払う人)の位置を印づけ、そこにmiがはまります。この語はとても便利で、いくらでも使い道があります。いい例が、描写sumtiです。たとえば、lo jai ta'i zukte で「意志のある行動という方法」を指すことができます。

ta'i: sumtcita (tadji由来) 「bridiは {sumti} という方法でなされる」

よく使われる表現 do jai gau mo はなんという意味か推測できますか?

Answer: 「何をしているの?」

jaiのもうひとつの機能はまだ説明しやすいです。x1のsumti の前にtu'aがくるように変換します (ko'a jai broda = tu'a ko'a broda)。言い換えれば、jaiは、x1のsumtiから省略抽象句を作り、実際のsumtiの代わりにその抽象句をx1にはめ込むという風にselbriを変換します。またもや、元のsumti位はfaiによって使用可能となります。 とても活動的なロジバンIRC使用者はしばしば、x1のsumtiにデタラメな例を使うために、le gerku pe do jai se stidi mi ということがあります。さて、彼はなんと言ったでしょう?

stidi x1はx2(概念/行動)をx3(者)に示唆/推奨/提案する

Answer: 「私はあなたの犬について(ほにゃららということを)提案します」

今のところ、bridiをselbriに、selbriをsumtiに、そして、すべてのselbriはそれ自身bridiでもあるのですから、selbriをbridiに変換する方法を学びました。残るはあとひとつ、sumtiをselbriに変換する方法ですね。これはmeを使ってなされます。これはsumtiを取り込み、それを位置構造「「x1 は x2 (性質)において {sumti} に属する」をもつselbriに変換します。

me: 総称的なsumtiのselbri化。 x1 は x2 (性質)において {sumti} に属する/のうちのひとつ

文がぐちゃぐちゃになったときに、それを訂正する方法を知っておくと便利です。ロジバンには自分が直前に言ったことを取り消すためにつかう語が3つあります。

si - 削除: 直前の語のみ取り消す sa - 削除: 直後のcmavoに該当するところまで遡って削除 su - 削除: その文を全削除

これらの語の機能は明らかですね: 語句をあたかも発話してないかのように削除するのです。これらはある引用句(lu...li'uを除くすべての引用句)の中では働きません。まあ、そうでないとこれらの語を引用することが不可能になりますからね。複数回siをいうと、その分の単語が削除されます。


Lojban Lessons - 18章 (引用符)

ロジバンの大きな特徴のひとつは、視聴覚的に同型であるように作られていることです。つまり、書いたとおりに発音し、発音したとおりに書けるということです。それゆえ、発音しない(できない)ような句読点が存在しないのです。結局、このことはロジバンは何かを引用するための幅広い語を持ち合わせているということを意味します。ロジバンの引用符にはすべて、引用部分を囲み、sumtiに変える働きがあります。いちばん単純なものから始めましょう。

lu 引用符: 文法的に正しいロジバン文の引用を開始する。 li'u 引用符: 文法的に正しいロジバン文の引用を終わらせる。

この構造体の中にある分はそれ自体で文法的に正しくなければなりません。少しの例外を除けば、 この引用符はどんなロジバンの単語も引用することができます(その例外の中には、当たり前ですが、li'uもあります)。

次の文を訳してみましょう。

mi stidi lo drata be tu'a lu ko jai gau mo li'u drata x1はx2ではない何か、x3(基準)において; x1は他のもの

Answer: 「私は”ko jai gau mo”ではない何かを提案します。」

luとli'uは文法的に正しくない文は引用できません。しかし、文の一部分を抜き出したいときもありますね。たとえば、「"gi'e"はsumtcitaですか?」などのようなものです。そのときはどうすればいいでしょうか?

このために、次の2つのcmavoを覚えておきましょう:

lo'u 引用符:文法的には正しくないがロジバンであるような文の引用を開始する。 le'u 引用符:文法的には正しくないがロジバンであるような文の引用を終わらせる。

この中身はロジバンの単語でなければなりませんが、文法的に正しくなくてもかまいません。さっきの"gi'e"の文をロジバンに直してみましょう:

Answer: xu lo'u gi'e le'u lojbo sumtcita

これらの語はle'u以外のすべての単語を引用できます。しかし、これでは不十分です。たとえば、「"do mo"は"What's up?"の適切な訳ですか?」を訳したいとき、ここまでに述べたものでは少々間違いが生じるかもしれません。というのも、"do mo"は「あなたは何ですか?」という意味にもなるからです。さて、別の手を打ちましょう。必要な語は、zoiです。

zoi  万能な引用文を開始し、万能な引用を閉じる
zoiを使えば、形態論的に正しいロジバン単語ならなんでも引用することができます(境界詞(delimiter)という)。[注: というより、あらゆる言語のどんな言葉も引用できます。英語も日本語もドイツ語もエスペラントも…。]その引用は、zoiで始め、zoiで締めます。これで、境界詞を除くすべての単語を引用することができるようになりました。ふつう、引用句はzoi単体か、もしくはそれの書かれた言語を表す文字を伴って囲まれます。

例: 「私はオペラ座の怪人が好きでした」 = mi pu nelci la'e zoi zoi. オペラ座の怪人 .zoi [注: mi pu nelci la'e zoi ponbau. オペラ座の怪人 .ponbauでもOKです。ponbauは日本語という意味です。英語を引用する場合は、glibauを使ってもいいです。簡略な方法としてその言語の頭文字を使う(ponbauならpy. glibauならgy.)というのもあります。] この例文について注意点が二つあります。ひとつは、その引用文の文字列が好きなのではなく、それの指すもの(つまり、オペラ座の怪人の劇とかDVDとか)が好きなのですから、la'eが必要です。二つ目は、引用符と引用句の間には必ず小休止(ピリオド)を置くということです。この小休止は、境界詞を正しく見定めるために必要不可欠です。 [注: 言葉の響きが好きであることを表すときは別にla'eはいりません。Tシャツの柄として、「勇気」という単語が好きというときには、mi nelci zoi zoi. 勇気 .zoi (私は勇気という文字列が好きだ)と言えます。 ]

さて、さっきの"What's up?"の文を訳してみましょう。

drani x1はx2(性質)に関してx3(状況)のときx4(基準)において正しい/正確/適宜

Answer: xu lu do mo li'u drani xe fanva zoi gy. What's up? .gy ここで、gyはglico(英語)短縮形ですから、境界詞にgyが選ばれています。[注:日本語では py となります。]

かなり似ている語に、la'oがあります。これはzoiと全く同じように働きますが、その引用句を名前に変えます。ふつうselbriとcmevlaだけが名前になり、引用句はなれませんから、この語が必要となります。

la'o 多目的引用を開始させ、終わらせる。しかし、その引用句は名前として使われる。

最後に、公式な引用符としてzoがあります。zoはそれがどんなものであろうと、常にその直後のロジバン単語を引用します。これはかなり使いやすいです。 zo 直後のロジバン単語を、何であれ引用する

例: zo zo zo'o plixau = 「"zo"は有用だ、なんちて」

zo'o : 心態詞: 談話系: ユーモアな感じで、「冗談だよ」 plixau x1 はx2にとって、x3(目的)をするのに有用だ

ロジバン使用者の一部は、次に説明するさらに4つの引用符を補ってやることが有用であると気づいています。それらはすべて試験的で、正規の文法ではサポートされていません。さらに残念なことに、試験的文法の構文解析で大いに問題を孕んでいます。 それにも関わらず、これらは度々使われて、一役買っています。いちばん使われるのは次の語です:

zo'oi 次にくる語だけ引用する。次にくる語は会話では小休止、筆記では空白で明確に区別する。 例: ri pu cusku zo'oi どわ! .u'i = 「彼は「どわ!」って言ったんだよ、はは」

使い方はとても簡単ですが、実際問題として、これらを使うのはかなり問題を含んでいます。zo'oiに続く語にはピリオド、声門閉鎖音、小休止が含まれてはいけないということを心得ておかねばなりません。たとえば、以下の文は試験的な[訳: それゆえ今よりも柔軟性の高い] 文法でさえも構文エラーが生じます。

書き言葉の例: ko iklki sedi'o zo'oi http://www.lojban.org/ -- エラー(zo'oiの適用範囲は"http://www"だけになるため)

話し言葉の例: lo salpo (ku) fa'u lo finti cu smuni zo'oi saka fa'u zo'oi sa.ka lo ponjo -- エラー(2つ目のzo'oiの適用範囲が"sa"だけになるため) (この"ku"はPEG構文解析ツールでは省略可能です)

zo'oiとla'oに似たものに、la'oiもあります。これは、zo'oiとまったく同じ働きをしますが、その引用句は名前として扱います。 la'oi 直後の語のみを引用し、それを名前として使う。直後の語は会話では小休止、筆記では空白で明確に区別する。

「私の英語の名前は"Safi"です」は何というでしょう?

glico x1はx2(性質面)に関して英語系(言語/文化/民族/地理) cmene x1(文字列)はx2の、x3(者)による名称; x3はx2をx1と呼ぶ; x2はx1と呼ばれている

Answer: mi glico se cmene la'oi Safi seが必要なことに注意してください。我々は自分たちが名前であると言いたいわけではないですから。

[注: 日本編もやっておきましょう。 ponjo x1はx2(性質面)に関して日本/ジャポニカ系(言語/文化/民族) これを用いて、「私の日本語の名前は"太郎"です」を訳してみましょう。

Answer: mi ponjo se cmene la'oi 太郎 ]

la'oiもzo'oiと同じ問題を抱えています。すなわち、la'oiに続く語にはピリオドも声門閉鎖音も、小休止も含んではいけません。たとえば、次の文はla'oiが公式の語となっている試験的文法でさえ構文エラーになります。

書き言葉の例 : .u'a mi te vecnu lo zgike datni pe la'oi t.A.T.u -- エラー(la'oiは"t"しか引用していないことになっている) (t.A.T.uは音楽グループ)

話し言葉の例 : la'oi .uli.uli zgike tutci -- エラー(la'oiは最初の"uli"しか引用しないため) ("`uli`uliはハワイの楽器)

話し言葉の例 : ju'i la'oi jugemujugemugokounosurikirekaijarisuigionosuigioumatsu,unraimatsufuuraimatsuku,unerutokoronisumutokoro,iaburakoujinoburakoujipaipopaipopaiponosiu,uringansiu,uringan,nogu,urindaigu,urindainoponpokopi,inoponpokona,anotcoukiu,umeinotcousuke mi'o ko'oi klama lo ckule -- 一息で言えないなら、エラー ("じゅげむじゅげむごこうのすりきれかいじゃりすいぎょのすいぎょうまつうんらいまつふうらいまつくうねるところにすむところやぶらこうじのぶらこうじぱいぽぱいぽぱいぽのしゅーりんがんしゅーりんがんのぐーりんだいぐーりんだいのぽんぽこぴーのぽんぽこなーのちょうきゅうめいのちょうすけ" は有名な日本の男の子の名前)


三つ目、ra'oiは直後のrafsiを引用します。rafsiは語ではないですから、ふつうはzoiで引用してやらないといけません。さらに、いくつかのrafsiはcmavoと同じ形をしています。その混同を避けるために、ra'oiは常にrafsiを指します。rafsiでない文字列に使うのは誤りです。

次の文はどういう意味でしょうか?: ra'oi zu'e rafsi zo zukte .iku'i zo'oi zu'e sumtcita ku'i 心態詞: 談話系: しかし(前述の言明とは対照的に) rafsi x1(文字列)はx2(語)のx3(部位/性質)に由来する、x4(言語)の形態素/語基/語幹/接辞

Answer: 「"zu'e"(rafsi)は"zukte"のrafsiです。しかし、"zu'e"はsumtcitaです。」

そして最後に、ma'oiを説明します。ma'oiはcmavoを引用しますが、それをその語が属するカテゴリ(selma'o)の名前として扱います。たとえば、ba'oはZAhOに属しているので、ma'oi ba'oは「ZAhO」の非公式な言い方です。

では、puとbaは同じselma'oにありますと言ってみましょう。 cmavo x1(文字列)はx2(品詞)・x3(意味/機能)・x4(言語)の機能語 [注: (ヒント: puという文字列はbaの属する品詞の機能語だ)]

解答例: zo pu cmavo ma'oi ba


[注:結構散り散りに紹介されているので、整理のためここで引用語を列挙しておきます:

lu 引用符: 文法的に正しいロジバン文の引用を開始する。 li'u 引用符: 文法的に正しいロジバン文の引用を終わらせる。

lo'u 引用符:文法的には正しくないがロジバンであるような文の引用を開始する。 le'u 引用符:文法的には正しくないがロジバンであるような文の引用を終わらせる。

zoi 多目的な引用文を開始し、多目的な引用を閉じる

la'o 多目的引用を開始させ、終わらせる。しかし、その引用句は名前として使われる。

zo 直後のロジバン単語を、何であれ引用する

  • 以下、非公式*

zo'oi 次にくる語だけ引用する。次にくる語は会話では小休止、筆記では空白で明確に区別する。

la'oi 直後の語のみを引用し、それを名前として使う。直後の語は会話では小休止、筆記では空白で明確に区別する。

ra'oi 直後のrafsiを引用する。

ma'oi 直後のcmavoを引用し、そのcmavoが属するselma'oの名前として働く。

]


Lojban Lessons - 19章 (数)

[注:digit, number, number string, number word の訳し分けが厄介で、訳が分かりにくいものになっているかもしれません。]

言語を学ぶとき、数え方というのはたいてい初期に教わります。 しかし実際のところ、数え方を知っていても、それを伴う会話の仕方が分からなければあまり意味がありません。 これは数についての章を19章に持ってきた理由のひとつでもあります。その他の理由として、数それ自体は学びやすいのですが、sumtiへの修飾の仕方がややこしいというのがあります。しかし、それについては後ほどの章に回しましょう。

これらの語を学ぶ前に、数それ自身には文法がないことを知っておくべきです。これはつまり、いかなる数字の羅列(以下、数字句という)も、それがまったく意味をなさないとしても、すべて文法的に同一なものとして扱われるいうことです。それゆえ、ある数字の構成体が意味をなすか否かをはっきりと答えることはできません。しかし、数語を意図して使うやり方もあり、その基準からそれると混乱が生じる元になります。

この章ではロジバンの数語すべては学びません。よく使われるものに絞って説明していきます。多彩な数学的cmavoはmeksoと呼ばれ、その複雑さゆえ、まるごと扱いません。いわゆるbridi数学における利点も疑わしいものですし。

普通の数字から始めていきましょう。すなわち、0から9です。:

零    一    二    三    四    五    六    七    八    九

no pa re ci vo mu xa ze bi so

noを除き、その母音がa,e,i,o,uの順であること、それぞれ異なる子音が使われていることに注意してください。10以上の数字は、その数字の桁をそのまま読めばいいです: vo mu ci - 四百五十三 pa no no no no - 10000

「疑問数」なる穴埋め疑問語のようものもあります。それはxoです。そういった質問には、単にその該当する数字それ自体を答えるか、数を表す構成体(後にやります)を答えます。 ci xo xo xo - 3??? (三千いくら?) xo 疑問数 – その正しい数を尋ねるために、普通の数字のように使う

試験的な語xo'eは、不特定の、省略的数字を意味するのにときどき使われます。その定義は非公式ではありますが。 ci xo'e xo'e xo'e – 三千といくらか xo'e 省略 数 すべての数字句は文法的に同一に扱われるのですから、ひとつのxo'eに対して複数桁で答えることもできます。

さらには、16進数用の数字(A〜F)もあります。普通は10進数を使いますが、16進数用の数を使えば安全に誤解なく16進数を使っているということが想定されます。

dau fei gai jau rei xei vai 10(A) 11(B) 12( C) 13(D) 14( E) 14(E) 15(F)

Eに相当する語が二つありますね。公式ではreiが採用されています(xではじまる三文字のcmavoはすべて試験的なものです)。xeiはreと混同するのを避けるために提案されています。

進数はju'uを使って明確に述べることができます。ju'uの前に該当する数字を書き、ju'uのあとにそれが何進数かを示します。 dau so fei no ju'u pa re - A9B0 (進数は12) (ここで進数が12になるのはその場限りで、その後はまた10進数に戻ります。永久に進数を変えることもできますが、あまり実践的でもなく、その仕方も明確に決まってはいません。)

小数はふつう小数点piを使って表されます。 pi 小数点 pa re pi re mu 12.25

数学と同じく、piの前に数字句がなければ0を想定します。これに関連して、数セパレータpi'eは16進数よりも大きな進数で話すときだったり、小数点piが不適切であったりするときに、桁を隔てるために使われます。たとえば、時間(時、分、秒)について話すときです: pa so pi'e re mu pi'e no ju'u re ze - 19, 25, 0 (27進数) re re pi'e vo bi - 22, 48 (22時48分)

数学的には厳密ではない、主観的、相対的な数語もひとしきりあります。これらの語は基本数とほとんどまったく同じに振る舞いますが、お互いに結合してさらに大きな数を形成することはできません。

ro so'a so'e so'i so'o so'u すべて ほとんどすべて ほとんど たくさん いくつか 少しだけ

これらの語は、数字を伴うとき、その数字の程度についての二番目の目安となります。 mu bi so'i sai - 58、これは本当に大きい

それゆえ、これらは数字句の中間に置かれることはありません。piのあとに置くと、小数点以下の数の程度を表すとみなされます。

pi so'u – それの小部分 pi so'o – それのいくつか pi so'i – それの大部分 pi so'e – それのほとんど pi so'a – それのほとんどすべて

まさに主観的な数語がいくつかあります。これらは先ほどのものと同じように働きます。

du'e mo'a rau 多すぎる 少なすぎる 十分

次の5語は文脈に基づいた数です。直後の数を修飾すること以外は、先ほどのものと同じに働きます。

da'a su'e su'o za'u me'i ~を除くすべて 多くて~ 少なくとも~ ~より大きい ~より小さい

これらの語のあとに数字がこない場合、1が想定されます。 so'i pa re da'a mu - 5を除く12という多数

知っておくべき最後の2つの数には、ほんの少し複雑な文法があります: ji'i  数字を丸める、概数、約

ある数の前にji'iが置かれると、その数全体がおおよそであるとなります:

ji'i ze za'u rau ju'o - 約70、これは確かに十分量より大きい

数の中間に位置するときは、その後続の桁のみ大まかであるという風になります。数の終わりにある場合は、その数は既に丸められたものであるという意味になります。

ki'o 数コンマ - ある数字句の中で桁を分ける; 1000

ki'oがキロと似たように思えるのは偶然ではありません。いちばん単純な使い方は、大きい数を3桁ごとに区切ることです。日本語でいう、カンマですね。

pa ki'o so so so ki'o bi xa ze – 1,999,867

3桁未満の数がki'oの前に置かれたとき、その数は最低限重要なものと想定され、その残りを埋めるためにzeroが想定されます。 vo ki'o ci bi ki'o pa ki'o ki'o - 4,038,001, 000, 000 ki'oは小数点以下でも同様に使われます。

これらがsumtiにどのように係るのかはそれ自体大きな単元ですので、22章に回します。そこでは、これらの数がbridiでどんな具合に使われるのかに焦点を当てます。

数字句はxo型の質問への答えに使われるので、それ自体で文法的に正しいものです。しかし、この場合、その数字句はあるbridiの省略形といったものではなく、ただただ数字句でしかありません。つまり、なんらかのbridiの一部というわけではありません。一般的に数がbridiの一部となるとき、二つの形のいずれかをとります。純粋な数字か量化詞です。量化詞に関しては後の章でやるとして、ここでは純粋な数字をみていきましょう。

純粋な数はliを接頭辞にもつ数字句のことです。これは数から直接sumtiを作り、たとえば「数字の6」といった数学的概念を指します。liのfa'orma'oはlo'oです。 li 数/mekso表現をsumti化。

lo'o 数/mekso表現のsumti化を終わらせる。

この単純なsumtiはふつうmitreやcacraのようなbrivlaのx2を埋めるものです。

mitre x1はx2(数量)・x3(方向)・x4(基準)のメートル; x1はx2メートル cacra x1はx2(数)・x3(基準)の時間

次の文を訳してみましょう:

le ta nu cinjikca cu cacra li ci ji'i u'i nai

Answer: 「はあ、あの夜遊びは約3時間続いているわ」

ロジバンで一から三まで数えて見ましょう。 Answer: li pa li re li ci

この章で最後にするのは、selma'oMAIとMOIです。 MAIにはmaiとmo'oの二語しかありません。このどちらとも数字句を序数に変換します。これは心態詞と同じ文法を持っています。序数は文章を章や節など二つの区分に分けるときに使われます。maiとmo'oの唯一の違いは、その区分のレベルの違いです。mo'oのほうがより大きな区分を示します。たとえば、章はmo'oで、節はmaiで数え上げます。注意してほしいのが、これらはMOIと同様、liを必要とせず、数字をそのまま取ることができます。

mai: 低レベルの序数マーカー: 数字を序数に変換する。mo'o: 高レベルの序数マーカー: 数字を序数に変換する。

MOIには5つの語があり、これらはすべて数字句をselbriに変えます。 moi - 数字nをselbri化する: x1はx2(集合)・x3(原理)におけるn番目

例: la lutcimin ci moi lo'i ninmu pendo be mi le su'u lo clani zmadu cu lidne lo clani mleca – 「ルイチーミンは私の女友達の中で、背の高い順から3番目だ。」 (順序を指定する際、ka抽象詞(29章)をsumtiとして使うならば、その集合の要素のうち、その性質の高い順に数えていくと理解されます。なので、今回のx3はlo ka clani と短く表現できます。)

lidne x1はx2を、x3(序列)において先行する/先立つ; x2はx1に続く; x1は前者; x2は後者 clani x1はx2(次元/方向)・x3(照合枠)において長い zmadu x1はx2よりも、x3(性質/数量)の点で、x4(度合)ほど卓越している/x3がx1にはx2よりももっとある mleca x1はx2よりも、x3(性質)に関してx4(数量)ほど少ない

mei - 数字nをselbri化する: x1 はx2(集合)からなる群で、その群はn個のx3を有している。 注意: ここで、x3は個、x2は集合、x1は群と想定されている。

mi ci mei はどういう意味でしょう? Anwer: 「我々は3人グループだ」

si'e - 数字nをselbri化する: x1 はx2のn倍 例: le vi plise cu me'i pi pa si'e lei mi cidja be ze'a lo djedi –  「このリンゴは一日の私の食べものの1/10未満だ」 上の例文のsi'eの定義が「x1はx2の1/n倍である」になっているのに注意してください。当初はn倍の定義で使っていたのですが、最近では変わりつつあります。公式のsi'eの定義も多分変わると思います。

cu'o - 数字nをselbri化する: 1(事)は2(条件)において n の確率で起こる 例: lo nu mi mrobi'o cu pa cu'o lo nu mi denpa ri – 「私が死ぬという出来事は、私がそれを待つという条件において1の確率で起こる」 = 「十分長く待てば、私が死ぬのは確実だ」 denpa x1はx2(事)をx3(状態)ながら待つ、x4(事)の開始以前/再開以前に

va'e - 数字nのselbri化: 段階selbriに変換する; x1 は段階 x2 上の段階位置 nにある 例: li pa no cu ro va'e la torinon – 「10はトリノスケールの一番上だ」


Lojban Lessons - 20章 (bo, ke, co, そしてさらなる可愛さ)

「君は重要な、アメリカ系の、コンピュータの買い手だ」と言ってみましょう。[注:括弧で括ると、重要な(アメリカ系の(コンピュータの買い手))] さて、どうしますか?こういった構造にはtanruが理想的です: mi vajni merko skami te vecnu 。いや、しかし、これは正しくないのです。tanruは左から右へと括られていくので、このtanruは次のように理解されます: ((vajni merko) skami) te vecnu - 「重要なアメリカ人のコンピュータ、の買い手」。有用なtanruを得るためにselbriの順序を変えることはできません。また、論理接続詞を使っても解決できません(論理接続詞は後でやります)。唯一の解決策はseleriの結合の仕方を変える方法です。

[注:日本語では修飾関係を明記することはほとんどありません。唯一のルールといえば、修飾部は被修飾部より前にくる(その距離は問わないが、近い方が関係があるとみなされやすい)ことだけです。例えば、「黒い長い髪の女」という日本語は一見問題なく見えますが、修飾関係は実に曖昧で、ロジバンではそこを厳しく指摘します。実際、黒い長い髪の女と見て、どう解釈しますか?僕は、(黒い(長い髪))の女と解釈しました。しかし、見方によっては、黒い((長い髪)の女)、つまり日に焼けた肌の黒い女性を表しているとも読み取れます。ですから、日本語を見るだけでは修飾関係がしっくりこないことが多々あると思うので、この章はいささか奇妙に感じるかもしれません。なるべく訳しわけるように努力はしたつもりです。]

tanruで二つのselbriを結合するには、その間にboを挟みます: mi vajni bo merko skami bo te vecnu は、mi (vajni bo merko) (skami bo te vecnu)と読まれ、この文脈では有用です。boが一続きのselbriの間に挟まれているとき、くくり方が通常の左から右へではなく、右から左へになります: mi vajni merko bo skami bo te vecnu は、vajni (merko bo ( skami bo te vecnu))と読まれ、「重要な(アメリカ人の(コンピュータの買い手))」となり、この状況ではより一層適切な表現です。 bo 二つのselbriを強く繋げる

それは美味しい黄色のりんごだ、をロジバンに訳してください。 kukte x1はx2にとっておいしい/美味

Answer: ti kukte pelxu bo plise

「それは大きい、美味しい黄色のりんごだ」はどうですか?

Answer: ti barda kukte bo pelxu bo plise

これに対するもう一つのアプローチは、ke...ke'eを使うやり方です。これらは上の段落で使った括弧に相当する語とみなすことができます。keは強いselbriの結合を開始し、ke'eはそれを閉じます。 ke – 強いselbriの括りを開始する ke'e – 強いselbriの括りを終了する

keの結合の強さはboと同じです。それゆえ、mi vajni merko bo skami bo te vecnu は、mi vajni ke merko ke skami te vecnu {ke'e} {ke'e}とも書けます。

「私はドイツ系の、黄色い家の販売員だ」をなんと言いますか?

Answer: mi dotco ke pelxu zdani vecnu

tanruの構造がぐちゃぐちゃになっている中、注目に値する語がもう一つあります。まず、「私は翻訳のプロだ」は、mi fanva se jibriと言えます。 jibri x1はx2(者)の職/仕事; x2はx1に就職している dotybau x1はx2(使用者)の、x3(命題(si'o, du'u))と言うために使われるドイツ語 glibau x1はx2(使用者)の、x3(命題(si'o, du'u))と言うために使われる英語

「私は英語からドイツへの翻訳のプロです」と言うには、beとbeiで文をぐちゃぐちゃにしなければなりません: mi fanva be le dotybau bei le glibau be'o se jibri 。こうなると、これがtanruであるだなんてことは文が複雑すぎて、話している間に忘れてしまいます。ここで、coを使いましょう。これはtanruに挿入して、その右側がその左側に係るように仕向けます:

mi se jibri co fanva le dotybau le glibau はさっきの文と同じ意味ですが、より理解しやすいものになっています。tanruの前にあるsumtiはse jibriのもの、tanruの後にくるsumtiは修飾selbri: fanvaのものになることに注意してください。 co tanruに挿入する。先行するsumtiは被修飾selbriのもの、後続のsumtiは修飾selbriのものになる。

coの結合力はとても弱く、何の結合語も伴わない普通のtanruの結合よりも弱いです。 これは、常に左側が被修飾部、右側が修飾部になるようにするためです。この結合力の弱さのおかげで、co構成体は構文解析がしやすいのです: ti pelxu plise co kukte は、ti (pelxu plise) co kukte と読まれ、これはti kukte pelxu bo pliseと同じです。これは、ke...ke'eがcoを包み込めないということも意味します。

selma'oGIhAのcmavo、bridi末の後付け論理接続詞は、coよりも弱い結合力です。これは、どのselbriがGIhA構成体のどれに結合するのかという混乱を完全に避けるためです。結論は簡単です: GIhAはどんなselbriグループも包み込むことがありません。

「私は重要な、アメリカ系の、コンピュータの買い手です」をcoを使って表現してください。

Answer: mi skami te vecnu co vajni merko

役に立てばと思い、結合の強い順にまとめてみました:

1. bo と ke..ke'e

2. bridi末の後付け論理接続詞を除く、論理接続詞(25章で説明します)

3. 結合語無し

4. co

5. bridi末の後付け論理接続詞


この章の残りは、17章でやったような有用だと思われる多彩な語についてやっていきます。

boにはもうひとつ、selbriのくくりを隔てるような使用方法があります。それは、sumtcitaの内容がsumtiではなくbridiになるように、sumtcitaをbridi全体にくっつけることができるということです。これは例をあげて説明するのがいちばんでしょう。 xebni x1はx2(物/者/事)を憎む; x1はx2にたいする怨恨を抱いている; x2は憎らしい

mi darxi do .i mu'i bo mi do xebni - 「私はあなたを叩く、私があなたを憎むという動機を以って。」 ここでは、boはmu'iとそれに続くbridiをくっつけています。 テンスsumtcitaとその他のsumtcitaの細かな違いというのがこれです。分かる通り、boでbridiとつながっている普通のsumtcitaについては、後続のbridiがsumtcitaのsumti位にはめ込まれます。しかし、神のみぞ知る理由により、baやpuといった語がbridiと結合するときは真反対の効果を受けます。たとえば、mi darxi do .i ba bo do cinjikcaというbridiにおいては、二番目のbridiがbaのsumti位に埋められ、一番目のbridiは二番目のbridiの未来に起こるという意味になると思うはずです。しかし、そうではないのです。この文の正しい訳は、「私はあなたを叩く。そのあと、あなたはいちゃつく」となるのです。この奇妙なルールは、すべてのsumtcitaのカテゴリをひとつにまとめられない主たる原因となっています。もうひとつの違いは、テンスsumtcitaは何かに係っていても、省略することができるという点です。このルールはさっきよりは妥当なものです。なぜなら、bridiがある時間やある空間にあるというのはしばしば想定できますが、BAIのsumtcitaが係っているとは想定できないからです。

非公式な語me'oiはme la'e zo'oiに相当する語で、直後にくる語をselbri化します。これはbrivlaを何もなしに開発するために使えます: 「mi ca zgana la me'oi トトロ」は「私は今、トトロを見る」となります。la'oiやzo'oiのように、公式文法ではサポートされてはいませんし、試験的文法を用いた構文解析においても大いに問題を孕んでいます。 [訳: me'oiはzo'oiを使って定義されていることを考えれば、当然のことです。ちなみに、zo'oiについては18章で述べています。]

giは奇妙なbridiセパレータで、.iに似ていますが、私の知るところでは二つの異なる構造に使われます。すなわち、giは論理接続詞(25章)だけでなくsumtcitaにも使えます。sumtcitaに使うのは、有用ではありますが、少し見にくい構造になります: mu'i gi BRIDI-1 gi BRIDI-2は、BRIDI-2 .i mu'i bo BRIDI-1と同等です。それゆえ、私があなたを叩いた云々の例文は、mu'i gi mi xebni do gi mi darxi do とできます。また、元の文の順序を保存するためにmu'iにseを使うこともでき、その場合は、se mu'i gi mi darxi do gi mi xebni doとなります。

Lojban Lessons - 21章 (COI)

この章では、呼応系、ma'oi coiを使って他の人と交流していきましょう。ma'oi coiで1章割いているのは、これらを理解することが一般的なロジバン文法を理解するための基礎になるからとか、理解するのが難しいからとかではなく、日常会話でとてもよく使われるのと、分量が多いからです。 呼応系はdoが誰を指すのかを定めるのに時々使われます。呼応系のあとにcmevlaがくると、そのcmevlaはその頭に暗黙のlaを得ます。selbriが続くときは、代わりにleがgadriとして使われます。 こういったものの例として、私は呼応系 coi を使います。これは「やあ」とか「こんにちは」といった意味です。 coi .mik. - 「やあ、ミク」

人がla + SELBRIで呼ばれているとき、その人を呼ぶのにそのselbriだけを呼応系と共に用いると、それにはleが想定されるのでその人のことを実際にそのselbriのx1であると指し示すことになってしまいます(これは大概の場合間違っています)。たとえば、ある人がla tsani 「空さん」と呼ばれているとすると、coi tsani は彼女をle tsaniとして参照し、「やあ、(実際の)空」という意味になります。一方で、coi la tsani は彼女を「空」と呼ばれる人として正しく参照し、「やあ、空さん」という意味になります。これはよくあるミスで、特に新参者のロジバニストで起こっています。 すべての呼応系には時々必要となるfa'orma'o、do'uが備わっています。これが使われるのはもっぱら、呼応系のあとにくる語とその句の最後の語がどちらもselbriのときで、それがtanruを形成してしまわないようにするために使われます。 [注: 呼応系は単体で(つまり後ろに何も付けずに)言うこともできます。「やあ、ミクが生まれたよ」と言うときに、coi la .mik. ca'o jbena といってしまうと、coiがla .mik.を取り込んでしまいます。こういったときもdo'uを使って呼応系の区切りを明確にします。もしくは.iで区切ってもいいです。coi do'u la.mik. ca'o jbena か、coi .i la .mik. ca'o jbena]

do'u 呼応系の句を終わらせる。たいてい省略される。 klaku x1はx2(涙)・x3(理由)で泣く

coi la gleki do'u klaku fi ma - 「やあ、幸さん。どうして泣いてるの?」

包括的な呼応系、doi、はdoによって参照されているのが誰かを規定する以外には何も仕事をしません。 doi .ernst. xu do dotco merko - 「ねえ、エルンスト。君はドイツ系アメリカ人なの?」

そのほかの呼応系はすべてdoを規定する以外にも意味があります。coiはもう知っていると思いますが、「こんにちは」の意味もあるわけです。呼応系の多くが心態詞のように2,3個の定義を持っています。心態詞と同じで、これはcu'iとnaiで修飾されます。もっとも、cu'iの形があるのはひとつだけですが。 重要な呼応系をいくつか表にまとめておきます。他にもまだありますが、あまり使われません。


呼応系

cu'i nai coi やあ/こんにちは - - co'o さようなら/またね - - je'e 了解/OK - 分からない fi'i ようこそ/どうぞ - 無愛想 pe'u お願いします - - ki'e ありがとう - 不感謝 re'i 聞く準備ができました - 準備できていません ju'i 注目! 気楽にして 私に構うな! ta'a 中断/割り込み - - vi'o やります!/承知しました - したくない! ke'o もう一度言ってください - 繰り返さなくていいですよ ki'ai ご元気で/どうかご無事で - 呪ってやる

ki'aiは試験的なものであることに注意してください。


coi co'o はどういう意味でしょうか?

Answer: 「通りすがりの挨拶」、つまり「こんにちは、そしてさよなら」

je'eは「OK」として使えますが、お褒めや感謝を受けた時の適切な返答でもあります(最低限丁寧でありたいならば)。そのお褒めや感謝が無事伝わりましたよということを示しているわけですね。

ki'e sidju be mi bei lo vajni .i je'e jenifyn. を訳せ。

sidju  x1はx2(者)をx3(行動/事)に関して助ける

Answer: 「ありがとう、私が大事なことをするのを助けてくれた人よ。」「どういたしまして、ジェニファー」

fi'i te vecnu .i pe'u ko citka はどうでしょう?

Answer: 「ようこそ、お客様。どうか食べて下さい!」

re'i は話を聞く準備ができていることを知らせるときに使います。「何かお力になれますか?」のロジバンでの相当表現として使うこともあります。もしくは「もしもし」かもしれません。re'inai は「AFK」や「ちょっと待って」といった意味になります。

次の文を訳せ:「こんにちは、何かお力になれますか?翻訳家さん」

Answer: coi re'i la fanva

ta'aは他人に行儀よく割り込もうとするときに使います。これに対するいい返答はなんでしょう?

訳せ: ta'a ro do mi co'a cliva cliva x1はx2からx3(経路)によって離れる/発つ/別れる/去る; x1はx2を残す

Answer: 「みなさん、横から失礼。今、私は去るところです。」 fa'orma'oも.iもいらないことに注意してください。

ke'oは、聞こえなかった発言を繰り返してもらうために使えるだけでなく、ロジバンを教える際、声に出して一緒に発音するときにも使えます(repeat after me)。これはかなり使い勝手のよい語です。 sutra x1はx2(動作/事)に関して速い/すばやい/敏速/俊敏

次を訳せ: .y. ke'o sutra tavla

Answer: 「えっと、もう一度お願いします、あなたはクイックスピーカーですね」

そして: 「繰り返さなくていいから…(不幸)、俺がやるよ。」

An answer: ke'o nai .ui nai vi'o


Lojban Lessons - 22章 (sumtiの量化)

[注: 最初に言っておきますが、この章の分量はなかなか多いです(10章以来?)。ペンとメモを用意して読んだほうがいいかもしれません。一応補足記事として22.1章を作りましたのでそちらも読むといいかもしれません。]

The complete Lojban LanguageやLojban for Beginnersのようなほとんどの教材は、"xorlo案"--gadriの定義とgadriの量化におけるルール改定--の適用以前に書かれたものです。そういったテキストに今や穴が空いてしまっているので、新しい情報を詰め込んだ章を書かねばならないわけです sumtiの量化は、ある規則の暗黙に言わんとすることを緻密に議論すると、すごく複雑になってしまいます。このテキストが最終目標--公式の"ゴールドスタンダード"、BPFKのルールが表すものに十分精確である--に達するには、この章は完成までに一番かかり、一番よく頻繁に書き直しされるものだと思われます。ミスを見つけた人はどうかぜひ私に連絡してほしいと思います。 つべこべいわず、始めていきましょうか。

最初に学ぶ概念は「分配性」です。14章で、分配的だとみなされる物体のまとまりに"個"という語を使いました。分配的な集団ko'aは、ko'a brodaが真ならば、その集団のすべての要素もbrodaで描写されるという性質をもったものです。これは(群が有する)非分配性とは対照的で、非分配的な集団はその要素とは異なる性質をもちます。分配性(たとえば個)と非分配性(たとえば群)の差は、sumtiを量化するときに関係してきます。 まずは、描写sumti(GADRI BRIVLAの形のsumti)の量化をどうするか考えましょう。量化を行う数字句はgadriの前におかれ、その場合、その数字句は外部量化詞となります。一方、gadriとbrivlaの間に置かれたときは内部量化詞になります。あらゆる数字句が量化詞として機能できます。 内部および外部量化詞がsumtiにどんな影響を及ぼすかは、そのgadriの種類によります:

--loとle-- 内部量化詞はいくつの対象が話題に上がっているかを表します。外部量化詞があるときは、そのsumtiはその数だけの対象に割り当てられます。先ほど述べたように、外部量化詞がなければ、selbriがいくつの対象に係っているのか(ゼロはありませんが)、それが分配的なのか非分配的なのかについて曖昧になります。例を出すのがいいですね: mu lo mu bakni cu se jirna - 内部量化詞の5は話題にしているのが5匹の牛であるということを表し、外部量化詞の5は話題にした5匹のうち5匹ともこのbridiの内容に該当することを表しています。それゆえ、この意味は「5匹の牛すべてがツノを持つ」となります。 bakni x1はx2(種類)のウシ属動物 jirna x1はx2(本体)の角/触角

次のbridiはどういう意味ですか? lo ru'ugubupu be li re pi ze mu cu jdima lo pa re sovda

ru'urgubupu x1はUKポンドでx2(数)である jdima x1はx2の、x3(買者)・x3(売者)による価格/値段 sovda x1はx2(生体)の卵/卵子/花粉/配偶子

Answer: 「2.75UKポンドは12個の卵の値段だ。」 日本語訳では、卵それぞれが2.75ポンドとも(分配的)、12個の卵全体で2.75ポンドとも(非分配的)解釈できます。

so le ta pa pa ci'erkei cu clamau mi (taは内部量化詞の前にきていることに注意)

ci'erkei x1 はx2(主催者)・x3(ルール)の、x4の試合と関連した試合に出る clamau x1 はx2よりx3(方向)・x4(差)だけ高い/長い

Answer: この内部は11人の選手が話題にあがってあることを述べており、外部量化詞はselbriがそのうち9人に分配して係っているということを述べています。ですから、意味としては「あの11人の選手のうち9人が私より背が高い」

lo/leの量化に関していくつかポイントがあります: 第一に、{数字} {selbri} が{数字} lo {selbri}としてみなされるという点です。それゆえ、ci gerku cu batci re nanmuは ci lo gerku cu batci re lo nanmu と定義され、これは犬の集団が男集団に対して分配的であるとみなされます。ですから、その三匹の犬それぞれが二人の男をそれぞれ噛み、計6回噛んだということになります。 batci x1はx2(対象本体)・x3(対象箇所)をx4で噛む

[注: この話を少し掘り下げたいと思います。結構難しい話なので、飛ばしてもらって構いません。 pa nixla cu klaku と lo nixla cu klaku は同一の文ではありません。もちろん後者は少女の人数が文脈に依りますから、その意味でも異なります。しかし、文脈上lo nixlaが1人の少女を表していることが明らかでも、この2つの文はまったく同一ではありません。  lo nixli はどの範囲の少女を指しているのでしょうか?教室?町内?世界中?…これは純粋に文脈によって決まることで、文自体では決まりません。この文脈によって決まる範囲のことを、『議論領域』といいます。lo nixliが指す少女は議論領域の中にいる少女というわけです。  さて、lo nixli では、議論領域に複数の少女がいて、そのうちのどの少女を指すのかはやはり決まりません。文脈によって「あの子だろうな」と分かるくらいです。ですから、lo nixli cu klaku は、かなり真偽の微妙な文で、ある人は真と思い、ある人は偽と思うことがありえます。  一方で、pa nixla cu klaku の(lo) nixlaも議論領域の中にいる少女を指すのはさっきと同じです。しかしここからが異なる点で、pa nixla は、議論領域の中の少女全員の顔をチェックするのです。そして、議論領域の中に泣いている少女がきっちり1人いたときのみに真となります。つまり、議論領域が共通認識のうちにあれば、この命題はどんな人からも真偽が一致するわけです。外部数量詞は「調べ上げ」を起こすと覚えておくといいでしょう。  上の例文の、ci gerku cu batci re nanmu を考えてみます。外部数量詞のあるsumtiが2つ以上ある場合は左のものから順に処理していきます。今回は、ci gerku から。まず、議論領域の中の犬を調べ上げます。そして、その犬それぞれについて次は噛んだ男が議論領域内に何人いるか調べあげます。めでたく2人の男を噛んだ犬が3匹いることが判明すればこの文は真です。ここで注意したいのが、男を噛んだ犬はきっかり3人いますが、犬に噛まれた男は2人以上いるかもしれないということです。そのわけは…、上の文を読めば分かりますよね?]

 第二に、外部量化詞が無いときです。そこには外部数量詞はあるにはあるが省略されているとみなすのでしょうか?いいえ。もしなにか外部量化詞があれば、省略されていようとなかろうと、それはsumtiを分配的にしてしまいます。つまり、loもleも(実際は使えるにもかかわらず)群を表すのに使えないということになってしまいます。それゆえ、外部量化詞が無い場合は、それは省略されているのではなく、単に存在していないということになります。外部量化詞のないsumtiは、意図しなくとも、ある数に参照されます。どれくらいの数なのかは文脈が決めてくれます。

 第三に、内部量化詞よりも大きい外部量化詞は意味をなしません。これは、話題にしているよりも多くのsumtiに対してselbriが成り立つという意味ですが、これでは内部数量詞が機能していません。文法的には正しいですが...。

最後に、内部量化詞を付けるときに限り、sumtiの前にlo/leを置いてもかまいません。 lo/le {数字} {sumti} はlo/le {数字} me {sumti} ({数字}個の{sumti}に属するもの)と定義されます。 ではこれはどういう意味でしょう? mi nelci loi mi briju kansa .i ku'i ci lo re mu ji'i ri cu lazni

briju x1はx2(従業員)・x3(所)の職場/事務所/営業所/局 kansa x1はx2に、x3(事)において伴う/付き添う; x1とx2は一緒 lazni x1(者)はx2(動作/仕事/努力/事)に関して怠惰/怠ける; x1はx2を怠る

Answer: 私は仕事仲間が好きだが、彼ら約25人のうち3人はぐうたらだ

--la-- 内部量化詞はその名前がselbriであるならば文法的に正しく、この場合、その数字は名前の一部とみなされます。外部量化詞はそういった個(lo/leのような)を分配的に量化するのに使われます。 {数字} {sumti}の前に置いても構いません。その場合は、その数字とsumtiの両方とも名前とみなされます。

次のものを訳してください: re la ci bargu cu jibni le mi zdani

Answer: 二つの"3つのアーチ"は私の家の近くにあります。(もしかすると、3つのアーチはレストランの名前かも?)

--loiとlei-- 内部量化詞はその話題となる群にいくつの要素があるかを表します。外部量化詞は分配的に(!) これらの群を量化します。 複数の群は非分配的とみなされる集団からなる一方で、外部量化詞は常にその複数の群を個として取り扱います。 {数} {sumti}の前に置かれた場合、loi/leiは、lo gunma be lo/le {数} {sumti} -- {数}個の{sumti}からなる群 -- と定義されます。

次の文を訳してみましょう: re dei gunma re loi ze valsi .i ca'e pa dei jai gau jetnu gunma x1はx2(要素)からなる群/団 valsi x1はx2(意味/効力)を有する、x3(言語)の言葉/語彙 ca'e 心態詞: 認識系: 私は定義する jetnu x1(命題)はx2(認識体系)において真実/本当

Answer: 「これら2つの発話はそれぞれ7語でなる2つの群からなる群である。私は定義する:この発話は真である」 [注: 毎度のことながら、群の量化は理解し難いですね…。 loi A はAであるようなものからなる群ですね。{}を群のくくりとします。 loi 3 A は {A A A}であり、2 loi 3 A は {A A A} {A A A}を表します。]

--lai-- laのように、内部量化詞は(名がselbriのとき)、その名の一部となります。外部量化詞は群を分配的に量化します。数+sumtiの前では、sumtiも数字も名前に変換します。

loi, lei, laiを量化する外部量化詞として小数が使われるとき、その群の一部について話すということになります(たとえば、「その武田グループの半分」はpi mu lai .takedas.となります)。

-- lo'i とle'i -- 内部量化詞はその集合の要素の個数を表します。外部量化詞はそういった集合のいくつかを分配的に量化します。数とsumtiの前に置かれたとき、lo selcmi be lo/le {数} {sumti} -- {数}個の{sumti}からなる集合 -- と定義されます。

次を訳せ: lo'i ro se cinki cu bramau la'a pa no no lo'i ro se bogykamju jutsi cinki x1はx2(種類)の昆虫綱(甲虫/チョウ/ハエ/ハチ/カメムシ/バッタ/トンボ…目) la'a 心態詞: 談話系: たぶん bramau x1 はx2よりx3(次元)においてx4(差)だけ大きい bogykamju x1 はx2(種)の脊椎動物 (bog > bongu = 骨、 kamju = 柱) jutsi x1はx2(属)・x3(科)の生物種

Answer: 「昆虫の種すべての集合はたぶん脊椎動物の種すべての集合100個よりも大きい」=「昆虫の種すべての数はたぶん脊椎動物の種すべての数の100倍よりも大きい」

--la'i-- laiと同様です。群gadriのように、集合gadriの前に置かれた外部量化詞は、集合の一部分について話すことを可能にします。数とsumtiの前では、lo selcmi be la {数} {sumti} -- {数}個の{sumti}からなる集合(という名前) -- と定義されます

--lo'e と le'e-- これらはいくつかの理由により現在まともなgadriの提案がありません。他のgadriのルールを拡張してその代用をするなら、lo/le が多分に最善でしょう(そのどちらも群よりは個を表すからです)。ですので、内部量化詞によって与えられたいくつかの典型的/偏見的物体に外部量化詞が分配性を強制するのを期待するでしょう。

 複数の物体を表すsumka'iを量化する際、それらは大抵群であることを覚えておくと便利です。定義では、{数} {sumti} は {数} da poi ke'a me {sumti} となっています。 数章先までdaについては触れませんが、この文脈では「なにか」という意味ととってください。それゆえ、ci mi は「我々に属する人々のうち3人」を意味します。こういった群を量化する際、meによって示唆される関係は群の所属関係であると想定してよく、それゆえ ci mi は「我々のうち3人」となります。

具体的に何か定まっていないようなselbriや対象を量化する際は、「論理的量化変項」なるものを使います。これらはその量化の方法と一緒に27章で学びます。

最後に、砂糖や水といった不可算な物質を量化したいときはどうすればいいでしょう?ひとつは曖昧な数字を使って量化する方法です。しかし、この方法はどういった尺度(単位)で測ったのかすら指定しないので曖昧すぎます。: 砂糖はたくさんの結晶の集団とみなせ、その一粒一粒を1と数えることもできます。水の場合は、当の水の本体を構成する水滴の量(もしくは水分子の個数)で数えることができるでしょう。こういったやり方は別に間違ってはいないものの、あまり正確ではないし、なにより紛らわしく誤解しやすいです。 非可算性であることを明確にするためには、内部量化詞として空(くう)なる語 tu'o を使うといいでしょう。 tu'o 空集合(φ)。

この解決策はエレガントかつ直感的です。xorlo案の元文には次のような恐るべき、しかし滑稽な例があります: le nanmu cu se snuti .i ja'e bo lo tu'o gerku cu kuspe le klaji snuti x1(事/状態)はx2(観点)にとって事故/偶然 ja'e sumtcita: BAI (jalge由来): bridiは{sumti}という結果になる kuspe x1はx2(間隔/領域)にわたる; x2はx1の範囲/範疇 klaji x1はx2(所)における、x3につながる街路/通り/回廊

さあ、どういう意味でしょう? Answer: 「その男はある事故に遭遇し、その結果、犬(非加算)はその街路にわたっていた。 [注:たしかにおそろしいですね。非可算な犬・・・・つまりは肉片でしょうね・・・・]

物質を量化する2番目の方法は、10章でやったように、テンスve'i, ve'a, ve'uを使う方法です。: ti ve'i djacu - 「これは少ない量の水です」 djacu x1は水; x1は水溶性/含水の

三番目は、もちろん、正確な尺度を与えるbrivlaを使うことです: le ta djacu cu ki'ogra li re pi ki'o ki'o - 「あの水は2.000000キログラムある」 ki'ogra x1 は群で測って、x2(数)kgである。なお、基準はx3。


Lojban Lessons - 23章 (否定表現)

[注:ロジバンは否定をより厳密に定めるため、述語論理の否定¬に基づいています。否定をしっかり理解しようとすると、ロジバンの根底にある述語論理を勉強しなければならないため、この章は少しごまかしながら書いている部分もあります。そのため、よくわからない部分があるかもしれません。]

その文の内容が真実でないことを示したいとき、私たちはよく否定表現を使います。 英語の否定はほとんど「not」に任せっきりで、任意性があり曖昧です[注:日本語も「ない」に任せっきりですね]。私たちは、ロジバニストとして、そんなことしてられません。というわけで、もちろんロジバンにはエレガントかつ非曖昧な否定表現のシステムがあります。ここで紹介するのは公式のゴールド・スタンダードなルールです。naに関する"黄金規則"については反対意見が多くなりつつあり、ルールを改定すべきとの声もあります。ここでは公式ルールに則ることにします。つまり、読者のみなさんにもとりあえずは公式ルールを知ってもらおうと思います。

まず最初は、bridi否定です。そのbridiが真でないという風に否定するからそう呼ばれています。bridiを否定するには、na kuを文の初めに置くか、na をselbriの前に置きます。 speni x1はx2と結婚している/の配偶者、x3(法律/規則/慣習)のもと

というわけで: na ku le mi speni cu ninmu は「私の配偶者は女ではありません」ということを述べています。これは、私の妻が一体何なのかについては何も述べていないし、私に妻がいるのかどうかさえ述べていません。ただ、私には女性であるような妻がいないということを述べています。 [注:もう少ししっかり書くなら、le mi speni cu ninmu というのは、『ある人xがいて、「xは私の妻である」かつ「xは女性である」』という意味になります。文頭のnakuはこれ全体を否定します。 述語論理っぽく書くなら、¬∃x ((xは私の妻)∧(xは女性))ですね。] これは次の重要なことを含んでいます: bridiの否定が偽ならば、元のbridiは真にちがいない。つまり、例えば、na ku le mi speni cu na ninmu は、私には妻がおり、そしてその人は女であるということを意味するにちがいないということです。 [注:ある文が偽なら、その否定文は真であるような命題を矛盾命題といいます。]

描写sumtiの暗に示されたbridiにさえも、bridi否定を使えます。lo na prenu は人間ではない何か(スフィンクスとか、野球のボールとか、人間でなかったら何でもよい)を参照することができます。

bau sumtcita, bangu由来: {sumti}という言語を使って se ja'e sumtcita, se jalge由来: {sumti}が原因で

naはbridi全体を否定してしまい、しばしば都合が悪いことがあります。mi na sutra tavla bau le glibau se ja'e le nu mi dotco - 「私はドイツ人であるから英語を速く話す、は真ではない」というのは、否定できる箇所が多すぎて、速く喋るということだけを否定したいというのがはっきりしません。より正確に表現するには、私が早く喋るということを否定しているのであって、他のものは否定していないということを示す必要があります。 bridiの一部だけを否定するために、sumtiが置けるあらゆるところにnakuを置くことができます。そうすると、na kuは後続のあらゆるsumti, selbri, sumtcitaを否定します。selbriの直前に置かれるときは、kuは省略できます。nakuの移動の仕方によっては量化詞に影響があるので注意が必要です。

ロジバンコミュニティの中で、na kuが後続の語句だけを否定するというのに対し、selbriの前に置かれたnaがbridi全体を否定するというのは、非合理的だという意見があります(尤もな意見です)。しかし、この章では公式の見解を学んでいきます。すなわち、selbriの前のnaはbridiを否定するということで話を進めていきます。

次のna kuの使用例を見ていきましょう。 na ku ro remna cu verba 「次のbridiは真ではない:すべての人間は子供だ」 su'o remna na ku cu verba 「少なくとも一人の人間について、次は正しくない: それは子供だ」 na kuがcuの前に置かれています。sumtiはcuの前にしか来れないのですから当然です。もしna単体を使うときは、cuの後に来なければならないでしょう。しかしそれではnaはbridi全体を否定してしまい、「次のbridiは真ではない:少なくとも一人の人間は子供だ」となってしまいます。

na kuを右へ移動すると、あらゆる量化詞が逆転します - たとえば、ro はsu'oに変わります。 これは、もちろん、bridiの意味が保存されなければならない場合に限ります。このことは、na kuがbridiの最後に置かれた場合、selbriだけが否定され、sumtiとsumtcitaはすべてそのままということを意味します。次の3つの同じ意味の例文を見てみましょう: ckule x1はx2(所)でx3(科目)をx4(聴衆)に教える、x5(者)によって営まれている教育機関/学習施設

na ku ro verba cu ve ckule fo su'o ckule – 「次は偽である:すべての子供が学校の生徒である」 su'o verba cu ve ckule na ku fo su'o ckule – 「少なくとも一人の子供が生徒であることについて、次は偽である:少なくともひとつの学校の生徒である」 su'o verba cu ve ckule fo ro ckule na ku – 「何人かの子供は全ての学校における生徒とは限らない」 [注:分かりやすいように、ハイライトとイタリックを施しました。イタリックはnakuの係る部分、赤いハイライトはnakuが右に動くことによって逆転した量化詞を表しています。]

naの正反対の語がja'aです。ほとんどのbridiにおいてja'aはデフォルトで設定されているので、滅多に使われません。例外は繰り返されるbridiです(次章)。bridiが真であることを強調したいときに時々使われます。例えば、 la .bab. ja'a melbi は「ボブは本当に美しい」となります。

na kuのメカニズムは自然言語の否定に似ているにもかかわらず、否定される対象やそれのbridiに対する影響の仕方について一定の基準を設けるのが難しく、それにより、na kuという構造はbridiの初め以外の場所では滅多に見られません。より限定的な否定表現が必要となるほとんどの場合では、別の手法を使います。段階否定(scalar negation)と呼ばれるこの手法はエレガントかつ直感的なものです。段階否定として使われる語は、seといった語のようにselbriに結合するので、否定の効果をselbriのみに適用することができます。 段階否定という名前は、このselbriに結合する語句が肯定から否定、そして真逆といったある尺度の中にあるという事実に由来しています:

je'a 「本当に」; 段階的な肯定 no'e 「そうでもない」, 段階的な中間点 na'e 「~ではない/ 非」, 段階的な否定 to'e 「~とは反対の/ 反」; 段階的な反対/真逆

これらの語はnaと同じ意味での否定語ではありません。段階否定語はbridiが偽であると述べるのではなく、ある尺度の点ではそのbridiは真であるという積極的な言明 -- そのbridiはselbri以外合っているという言明 -- を発するのです。 この違いはもはや学術的なものではありますが。例えば、mi na'e se nelci 「私は非好かれている」というのは、そのselbri (nelci)の表す尺度(今回は好き~嫌い)のどこかの点におけるものは私に当てはまるということです。 [注:たとえば、nelciに段階否定が用いられると、nelciという目盛りがある物差しが出てきます。つまり、どれくらい好きかという物差しです。好き度 0--1--2--3--…--10みたいな感じですね。段階否定はnelciの目盛り(7とか8とかにあると思います)からみてどのくらい離れているかを表すわけです。]

ほとんどの場合、複数の地点を取り得ないような尺度を想定する(love - like - dislike - hateのような)ので、 mi na'e se nelci は mi na se nelci を暗に意味しています。 それゆえ、no'eとto'eは、そのselbriがいくらか明白な尺度に位置するときにのみ使われるべきです: le mi speni cu to'e melbi - 「私の配偶者は醜い」 は、美の反対が何であるか即座に分かりますから、意味をなします。一方で、 mi klama le mi to'e zdani - 「私は私の反家に行く」は、文法的に正しいものの、話者が何を意図して"反家"と言ったのかの推測を聞き手に丸投げしていますから、避けるべきです。

では、ある尺度の他の地点においてそのselbriは正しいと示唆することなく、単にselbriのみを否定するにはどうすればいいでしょう? 簡単ですね: na kuをbridiの右端にもってこればよいのです。nakuのこの性質はとても有用です。ロジバニストの中には、selbriの語頭にnaのrafsi、narをくっつけるのを好むのもいます。これは同じ効果がありますが、ひとつアドバイスしておくと、brivlaを見慣れないものにしてしまうので、日常会話では理解しづらくなります。

selbriだけを否定する必要が出てきたが、bridiの最後になる前に否定であることを言いたいときは、試験的cmavo、na'ei (文法的にはna'eと同じように働く)が使えます。 na'ei: 直後のselbriのみを否定

次の文を訳してみましょう: 「私の配偶者は女ではない」(男だという意味)

Answer: le mi speni cu na'e / to'e ninmu 段階否定を使えば、配偶者は存在しているということを示唆し、naを使えば、それすら示唆しません。

「私の配偶者は本当の女というわけではありません」

Answer: le mi speni cu no'e ninmu ここでの尺度は女性から男まで、と推定されます。

「私はドイツ人だから、英語を速く話しません」

Answer: mi na'e sutra tavla bau le glibau se ja'e le nu mi dotco

ついでに、tanruにこういった語を結合するときはいつでも一番左端のselbriにのみ係るということに注意して下さい。tanru全体や、tanruの一部に結合させたいときは、通常のtanruをくくる語を使います。

「私は黄色の家ではないものを売る」を、pelxu zdani vecnuというtanruを使って言ってみましょう。

Answer: mi na'e ke pelxu zdani ke'e vecnu または mi na'e pelxu bo zdani vecnu

「アメリカの王は太っているか?」という質問に答えようとしましょう。これは段階否定ではすべて失敗に終わります。専門的なことを言えば、naを使って否定するのが正しい一方、何が真かを一切示唆しないので、聞き手にアメリカの王がいると誤解させるかもしれません。こういった場合には、メタ言語的否定 na'iがあります。 na'i : メタ言語的否定。「真理値をそのbridiに割り当てることに問題がある。」 na'i には自由文法(心態詞と同じ文法)が与えられています。これはつまり、na'iはどこにでも現れることができ、直前の語や構造に係るということです。

palci x1はx2(基準)において悪質/非道/堕落的 le na'i pu te zukte be fi le skami cu palci – 「そのコンピュータが探し求めていた目的{誤り!}は悪質だった」 おそらく、この文はコンピュータが意志を持ってゴールを探し求めることに異議を唱えているのでしょう。 [注: 結局、「アメリカの王は太っているか?」の答えの例としては、「le na'i merko noltrunau」があるでしょう。つまり、「アメリカの王様というのがおかしい」と答えるのです。]

これは否定についての章ですから、naiについて少し触れておくべきかと思います。これは小規模の文法構造を否定するのに使われ、心態詞、テンスを含むすべてのsumtcita、呼応系、論理接続詞に使えます。naiを用いた否定の規則は、構造ごとによって違い、naiの効果はその構造それぞれについて触れるときに説明したいと思います。例外はsumtcitaで、sumtcitaの否定規則はより複雑で、このテキストでは扱わないつもりです。

Note: これを書いている時期には、naiをselma'o CAIに移動させることが提案されています。これは、naiの意味論がnaiがどのselma'oに続くかに依存しているということを意味しています。



Lojban Lessons - 24章 (brika'i/代bridi と ko'a)

「私はポン太(.pont.)と呼ばれている」、zo .pont. cmene mi と私が言い、あなたがそれと全く同じbridiを言わなければならないとき、どうすればいいでしょう?よくある答えは、do se cmene zo .pont. です。bridiの内容が同じであるためには、miとdoを入れ替えてやればよく、別にseで変換されたselbriを使うかどうかは問題ではありません。なぜなら、bridiはそれを表す語々のことではでなく、考え、抽象的な命題のことをいうからです。私が言うmiとあなたが言うdoは同じsumtiですから、さっきの2つのbridiは同一のものなのです。 この章はbrika'i、sumka'iのbridi版についてです。brika'iはbridi全体を表す語です。ここで思い出しておいてほしいのが、bridiはsumtiと、sumtiとselbriとsumtcitaを含む句からのみなります。心態詞やkoやmaのような意味論的な語はbridiの一部ではありませんから、brika'iで表されません。

brika'iはsumka'iに比べるとかなり少ないです。まずは一番良く使うGOhAと呼ばれるシリーズからやっていきましょう。:

go'u かなり前のbridiを繰り返す go'a 以前のbridiを繰り返す go'e 2つ前のbridiを繰り返す go'i 直前のbridiを繰り返す go'o 直後のbridiを繰り返す nei 最近のbridiを繰り返す no'a かなり後ののbridiを繰り返す

以上がGOhA brika'iの一部です。おなじみのi, a, uパターンが、「直前、以前、かなり前」にあるのに注意してください。

これらはsumka'iのri,ra,ruとかなり似ています。brika'iはjurfaの主bridiを参照することしかせず、関係句等のいわゆる副bridiは参照しません。主bridiが関係句を含むことはもちろんありますが、brika'iがその関係句のみを参照するのに使われることは絶対にありえません。 GOhAは文法的にはselbriと同じように働くので、selbriに係ることのできるものはGOhAにも係ることができます。GOhAの位置構造は、それが表すbrdiと同じで、そのsumtiは初期設定では参照しているbridiと同じものになります。GOhAのsumti位を埋めると、その位のsumtiを上書きすることができます。2つの文を見比べてみてください: A: mi citka lo plise B: go'i - 「私は林檎を食べる」「あなたはそれをする」 A: mi citka lo plise B: mi go'i - 「私は林檎を食べる」「私もそれをする」

こういったbrika'iはxuの疑問文に答えるのに非常に使えます: A: xu do nelci le mi speni B: go'i / na go'i - 「あなたは私の妻が好きですか?」「はい/いいえ」 xuは心態詞ですから、go'iによってコピーされません。 naで否定したbridiを繰り返す、すなわちその冠頭(bridiの始めかselbriの直前)にnaが置かれたbridi(27章)を繰り返すときは、naのコピールールが他と違うので注意してください。naはコピーされるのですが、brika'iに追加されたnaはその元のnaと置き換わります。例をみてみましょう: A: mi na citka lo plise B: mi go'i = mi na citka lo plise C: mi na go'i = mi na citka lo plise D: mi na na go'i = mi citka lo plise = mi ja'a go'i

neiとno'aはbridiを構文解析しづらくする(たとえば、dei na se du'u le no'a la'e le nei)使い方以外ではあまり使われません。neiはかなり後のbridiを繰り返すわけですから、le nei はかなり後のbridiのx1を、le se nei はx2を・・・参照するのに使えます。

brika'iを使うときは、miやdoといった人称的sumka'iを伴った文をコピーするのに注意を払い、それが間違った文脈にあるときは繰り返さないように気をつけなければなりません。たとえば、上の林檎を食べるといった2つの例文のように。それぞれを入れ替える代わりに、そのbridiのどこでもいいのでra'oを置くと、bridiが話者の視点で当てはまるように人称sumka'iを更新することができます。 A: mi do prami B: mi do go'i は、A: mi do prami B: go'i ra'o と同じ意味です。 ra'o そのbridiが話し手の視点で当てはまるようにすべての人称sumka'iを更新する

[注: GOhAは以前の文のselbriのごとく働くので、gadriで囲んでsumtiとして使うこともできます。 mi citka - le se go'i cu mo = 私は食べた - 食べられたものは何ですか 例文でもあるように、GOhAにSEを使うこともできます。selbriにできることなら好きにしてください。]

brika'iのもうひとつのシリーズは実に覚えやすいです。 broda bridi変項 1 brode bridi変項 2 brodi bridi変項 3 brodo bridi変項 4 brodu bridi変項 5 cei bridi変項を定義する(brika'iでなく、BRODAで)

broda~broduはすべて同じ語で、5通り用意されています。これらはbridiへのショートカットとして使われます。 bridiのあとにcei brodaと言うことで、そのbridiをbrodaとして定義し、brodaは続く会話でそのbridiのbrika'iとして使うことができるのです。 ついでに、sumka'iにも似たようなものがあります。この章のテーマとは多少ずれますが、ここでやってしまいましょう: ko'a sumti変項 1 fo'a sumti変項 6 ko'e sumti変項 2 fo'e sumti変項 7 ko'i sumti変項 3 fo'i sumti変項 8 ko'o sumti変項 4 fo'o sumti変項 9 ko'u sumti変項 5 fo'u sumti変項 10

このシリーズのceiに相当する語句はgoiです: goi sumti変項を定義する

これらはbrika'iの場合と同じように使えます。たとえば、sumtiのあとにgoi ko'uを置けば、そのsumtiはko'uによって参照することができます。

不思議なことに、これらのシリーズは上で述べたような目的で使われることは滅多にありません。実際は、次のような感じで任意のselbriやsumtiとして使われています。: 「ってことはko'a ko'e broda na ku の真理値は常にna ku ko'a ko'e brodaと一緒ってこと?」「ううん、違うよ」

[注:ですから、例文を見ると、ko'aが彼とか彼女という訳になっているのを見かけるわけです。日常的な語で包括的な代名詞が無いですから。「それ」だと非人間な感じがしますし。より厳密に訳を与えるなら、某(それがし)とかになるかもしれませんが、あんまり日常で使いませんしね。]

Lojban Lessons - 25章 (論理接続詞)

『ロジバニストに尋ねた。「コーヒーにミルクか砂糖いりますか?」。すると彼女はこう答えた:「その通り」』

機知に富んだジョークですが、これはこういった質問を尋ねるときの日本語のやり方が奇妙だということを表しています。字面は真/偽を問う疑問文であるのに、実際は違うわけです。ロジバンではこういった矛盾は撲滅しないといけないので、この種の疑問文を尋ねる他の方法を探さなければなりません。少し考えてみると、妥当かつ簡単な方法はなかなか見つかりません。ロジバンは、あまり簡単ではありませんが、妥当である方法を採用しました。

説明する前に、bridiを2つに分けます。bridi1: 「私はコーヒーにはミルクが好きだ」、 bridi2: 「私はコーヒーには砂糖が好きだ」。両方のbridiとも真偽を問えるものです。bridiの真偽によって4通りの組み合わせがあります。 A ) 1 かつ 2 B ) 1 だが、2ではない C ) 2 だが、1ではない D )1でも2でもない

私は、実際のところ、コーヒーにはミルクを入れるのが好きで、砂糖が入ってるかどうかにはこだわりません。それゆえ、私の好みはA)true B)true C)false D)false と書けます。さらにコンパクトな書き方があり、私のコーヒーの好みは TTFF、つまり true, true, false, false と書くことができます。同様に、ブラック(ミルクも砂糖も無し)が好きな人はFFFTとなります。この"true"と"false"の組み合わせのことを"真理関数"と呼びます。今回の場合は、「私はコーヒーにはミルクが好きだ」と「私はコーヒーには砂糖が好きだ」という2つの文についての真理関数です。文の順番を入れ替えると結果が変わってしまうことに注意してください。 ロジバンでは、4つの真理関数を取り扱い、これらを基礎的なものとみなします: A: TTTF (少なくともどちらか一方) O: TFFT (共に真または共に偽) U: TTFF (後部の真偽にかかわらず) E: TFFF (共に真である)

この例では、それぞれ次のように訳せます: A:「ブラックだけは嫌」、O:「ミルクと砂糖両方か、どっちも無しかでお願い」、 U:「ミルクで。砂糖はどっちでもいいわ」、 E:「ミルクと砂糖両方お願い」

ロジバンでは、真理関数に相当する語を2つのbridi、selbri、sumtiの間に挟みます。そういった語は論理接続詞と呼ばれています。sumtiの間のその真理関数に相当する語は .aと.oと.uと.eです。まあなんて素敵な。例を見ましょう: 「私はアメリカ人とドイツ人と友だちだ」は、 lo merko .e lo dotco cu pendo miとなります。 「私は君か誰もいないところに話しかける」はどう言いますか?

Answer: mi tavla do .e no drata これは実際は「私はあなたに話しかける」は真であるということを述べていることに注意してください。

もうひとつ: 「私はチーズが好き、コーヒーが好きだろうがなかろうが。」 ckafi x1はx2(種類)のコーヒー

Answer: mi nelci lo'e cirla .u lo'e ckafi

可能な真理関数の値は16種類あることは容易にわかります(2の4乗です)。なので、あと残り12個を学ばなければなりません。うち8個は前半か後半の文を否定することで得られます。前半はnaを真理関数語の頭に付けることで否定され、後半はnaiをその語のあとに付けることでなされます。たとえば、.e はTFFFを表すので、 .e nai は「1は真で、2は偽である」、FTFFとなります。同様にして、 na .aは「1は真で2は偽、ではない」、TFTTとなります。こういった変換を頭の中でリアルタイムでするのはとても、とても難しいので、一般的な論理接続詞の働き方を学ぶのに集中して、それから論理接続詞を暗記するのがいいと思います。

残り4つの関数(TTTT, TFTF, FTFT, FFFF)はこういう風には作れません。TTTTとFFFFはどうやっても論理接続詞では作れませんが、どうあれ不要な類のものです。仮想的な論理接続詞を考えてやると、「私はコーヒーにはミルク FFFF 砂糖が好きだ」は、「私はコーヒーが好きではない」に相当する文になり、ただややこしく言っただけになります。残る2つ、TFTFとFTFTは .uの頭に懐かしのseを付けてやることで作れます。seは2つの文をひっくり返します。たとえば、se .u は、「Bだ、Aにかかわらず」となります。これはTFTFですね。最終的な論理接続詞のリストを以下に載せておきます。

TTTT: 作成不可 TTTF: .a TTFT: .a nai TTFF: .u または .u nai TFTT: na .a TFTF: se .u TFFT: .o または na .o nai TFFF: .e FTTT: na .a nai FTTF: na .o または .o nai FTFT: se .u nai FTFF: .e nai FFTT: na .u または na .u nai FFTF: na .e FFFT: na .e nai FFFF: 作成不可

論理的には、たとえば mi nelci lo'e cirla .e nai lo'e ckafi といった論理接続詞を伴う文を言うことは、同じ論理接続詞で繋がれた2つのbridiを言うのに等しいです: mi nelci lo'e cirla .i {E NAI} mi nelci lo'e ckafi このようにして、論理接続詞の機能が定義されます。次は、論理接続詞をbridiに係らせる方法を学びましょう。

核となる論理接続詞の語の直前にjを置くことで、2つのselbriを繋げます。例えば、 mi ninmu na jo nanmu は「私は男か女かであるが、どちらともではない」となります。 ninmu x1 は女性

これは"tanru内部的(tanru-internal)"です。"tanru内部的"とは、tanruを形成するときでさえ、selbri同士を緩く結合するという意味です: lo dotco ja merko prenu は、「ドイツ系かアメリカ系どちらかの男」となります。この結合は通常のtanruの括りよりも少しだけ強く(特定の括り語よりかは遥かに弱い)、lo dotco ja merko ninmu ja nanmu は(dotco ja merko) (ninmu ja nanmu)と解析されます。selbriの論理接続詞は.iに係って2つの文を結合することもできます: zo .kim. cmene mi .i ju mi nanmu - 「私はキムと呼ばれている、私が男かどうかにかかわらず」 .i je という組み合わせは、どちらの文も真であるということを述べており、論理接続詞が無い場合に想定されるのと同じです。

意地悪なまでに難しい問題: 論理接続詞を使って、「もし君がボブと呼ばれるなら、君は男だ」をどうやって訳しますか?

Answer: zo .bab. cmene do .i na ja do nanmu つまり、ボブと呼ばれることをB、男であることをMとしたときに、「Bが真で、Mが真」、「Bが偽で、Mが偽」、「Bが偽で、Mが真」であるということ。禁制の組み合わせは「Bが偽で、Mが真」だけです。これはつまり、「君がボブと呼ばれるということが真であるならば、君は男でなければならない」という意味になります。

悲しい悲しい出来事、「私は泣いて、自分の犬を放り去った」を訳してみるとき、ある問題にぶつかります。 selbriの間にjeを入れて言おうとすると、論理接続詞の定義によれば「私は犬を流して泣き、犬を放り去った」となってしまいます。人というのは涙とか血とかを流して泣きはするものの、犬を流して泣くなんてことはしません。 しかし、bridi末端論理接続詞(以下、BTLC -- bridi-tail logical connectives)を使うことでこの問題を回避することができます。BTLCのすることは、先行のsumtcitaとsumtiはBTLCで結合したselbriどちらにも係り、後続のsumtiやsumtcitaは後者のselbriにのみ係るということです: 喩えるなら、bridiが1つの頭と2つの尻尾を持っているということです。 BTLCの形は gi'Vです。ここでVとは真理関数の母音です。 それではさっきの文をロジバンに正しく訳してください。

Answer: mi pu klaku gi'e dunda le mi gerku

ro remna cu palci gi'o zukte lo palci はどういう意味ですか? palci x1はx2(基準)において悪質/非道/堕落的

Answer: 「人間はみな、非道であれば非道なことをし、非道でなければそんなことはしない。」=「人間は、悪い者のみが悪事を働く。」

さらに、真理関数の母音の前にgを置いて作られた、先見的なtanru内部除外的な接続詞があります。ここで、「先見的」とは、接続するものの前に置かれ、言う前にその文の文法構造について考えれるという意味です。tanru内部除外的とは、それがsumti、bridi、selbri、bridi末端の間では使えるが、1つのtanruの中の2つのselbriには使えない、という意味です。 その機能を見るために、上の例文を書きなおしてみます: go lo remna cu palci gi lo remna cu zukte lo palci こういった構造における最初の論理接続詞の意味は、真理関数値に対応する母音がもたらすものと同じです。2つ目の論理接続詞は常にgiで、.iのように、真理関数値を持っていません。それは単に2つの繋がった要素を分ける仕事をします。最初、もしくは二番目の文を否定したくなったら、(最初の文を否定するなら)最初の、(二番目なら)二番目の論理接続詞の後ろにnaiを付け加えます。 この構造が適切に終わるのならば、次の例が示すように、それは特筆すべき柔軟性を持っています: mi go klama gi cadzu vau le mi zdani - 「私は自分の家へ行く、歩くその時に限って」、つまり「私は歩いてでのみ自分の家に行ける」 vauはle mi zdaniがcadzuとklama両方に係るようにするために必要です。 se gu do gi nai mi bajra le do ckule - 「君がどうであれ、私ではない、君の学校へ走るのは。」つまり、「君が何をしようが、私は君の学校へ走るつもりはない。」

gVのtanru内部的な相当語はgu'Vです。tanru内部的かどうかと、selbriを通常のtanru括りより強くgiに結合させるが、明らかなsumti結合よりは弱いということを除けば2つは全く同じです。 la xanz.krt. gu'e merko gi dotco nanmu = la xanz.krt. merko je dotco nanmu

さて、「コーヒーにはミルクか砂糖がいりますか?」の尋ね方を学ぶのに必要な知識をつけるために、ここまでやってきました。単に、maのような普通の論理接続詞の代わりに疑問論理接続詞を置いて、聞き手に正しい語句で埋めるように頼めばいいのです。残念ながら、これらの疑問論理接続詞は尋ねたい論理接続詞の形態と必ず一致しているとはかぎりません: ji 疑問論理接続詞: sumti論理接続詞(A)を尋ねる je'i 疑問論理接続詞: tanru内部的selbri論理接続詞(JA)を尋ねる gi'i 疑問論理接続詞: bridi末端論理接続詞(GIhA)を尋ねる ge'i 疑問論理接続詞: 先見的tanru内部除外的論理接続詞(GA)を尋ねる gu'i 疑問論理接続詞: 先見的tanru内部的論理接続詞(GUhA)を尋ねる

さて…、というわけで、彼女はコーヒーにはミルクか砂糖がいるかどうかを尋ねてみましょう。 ladru x1はx2(起源)のミルク/牛乳; x1は乳性/酪農の sakta x1はx2(資源)・x3(成分)の砂糖/果糖/ブドウ糖/乳糖

解答例: sakta je'i ladru le do ckafi しかし、より日本語的に、あまりエレガントでないものでも十分でしょう: do djica lenu lo sakta ji lo ladru cu nenri le do ckafi

[注:個人的な疑問ですが、sakta je'i ladru le do ckafi で合ってるんだろうか…。これだとle do ckafiは2位に来てしまう気がするけど。正しくは sakta je'i ladru fa le do ckafiか?]

[注:sumti接続詞は表としてありますが、他の場合の表がないので以下にまとめておきます: 普通 BTLC 先見的 selbri

 j

gi' g tanru内selbri

 j

- gu' bridi

 j

- g

]

Lojban Lessons - 26章 (非論理接続詞)

"論理接続詞"の"論理"という語は、論理接続詞が真理関数と関係があるということを表しています。しかし、すべての有用な接続詞が真理関数を通して定義できるとは限らないので、論理接続詞の他にも接続詞があります。 論理接続詞の意味は、その論理接続詞によって繋げられた2つのbridiと同じであるとして定義されます。たとえば、mi nitcu do .a la .djan. はmi nitcu do .ija mi nitcu la .djan. に相当します。この定義はしっかりと覚えておきましょう。というのも、その意味合いを変えること無しにsumtiを論理接続詞で繋ぐことができないこともあるからです。 次の文を考えてみて下さい:「ジャックとジョーはこの劇を書いた。」 試しに訳を作ってみるとこんな感じになるでしょう: ti draci fi la .djak. e la .djous. draci x1はx2(内容)・x3(作家)・x4(観衆)・x5(役者)の(舞台)劇

この訳の問題点は、ti draci la.djak. ije ti draci la .djous. と解釈されてしまうことです。これは言いたいこととはずれます。ジャックもジョーもそれは書いておらず、彼らは一緒にそれを書いたのです。もちろん、ここで欲しいのは群であり、ジャックとジョーをひとつの群にまとめる方法が必要なわけです。これは真理関数とはほとんど関係がないので、非論理接続詞、selba'o JOIを使う必要があります。ちょっと後でジャックとジョーの問題に戻ることにして、まずはJOIの単語4つをみてみます。

ce ce'o joi jo'u 結合後の形 集合 順序対 群 個の集団

これらの語の機能は単純です:lo'i remna jo'u lo'i gerku は人間の集合と犬の集合を分配的に(個として)みなします。22章(量化詞)で、"分配的"とはある集団で真であるならばその要素それぞれについても真となることであったことを思い出して下さい。同様に、loi ro gismu ce'o loi ro lujvo ce'o loi ro fu'ivla はすべてのgismuの群、次にすべてのlujvoの群、次にすべてのfu'ivlaの群からなる順序対となります。 [注:数学の座標なども順序対で表せます。(2, 3)はli re ce'o li ci となります。]

固有の順序をもつJOIに関しては、seがその順序をひっくり返すためにce'oの前に置かれるときがあります。"A ce'o B"と"B se ce'o A"は同じです。

それでは、「ジャックとジョーがこの劇を書いた」を正しく訳してください。 Answer: ti draci fi la .djak. joi la .djous.

JOIのcmavoはとても柔軟性があります: これらはsumti接続詞のようにもtanru内部的接続詞のようにも働くことができ、それゆえ、sumti, selbri, bridiを繋げるのに使われます: この柔軟性のために、fa'orma'oを正しく使うよう注意しなければなりません。 lo dotco jo'u mi cu klama la dotco gugde のどこがおかしいでしょうか?

Answer: jo'u はselbriの後に置かれているので、selbriとselbriを繋げるものだと期待されますが、その後にselbriは見つかりません。jo'uの前にkuがあれば、文法的に正しくなります。

複数のJOIが使われるとき、boやkeが使われることがあります。 mi joi do ce'o la .djak. joi bo la .djous. cu pu'o ci'erkei damba lei xunre - 「私とあなた、次にジャックとジョーがもうすぐ赤組と格闘試合だ」。次の文と見比べてみて下さい: mi joi do ce'o la .djak. joi la .djous. cu pu'o ci'erkei damba lei xunre - 「まず私とあなたが、次にジャックが、ジョーと一緒に赤組と格闘試合をするだろう」 damba x1はx2と、x3(事)に関して格闘する/戦う; x1は戦士/格闘家

JOIでbridiを繋げると、そのbridiの間にある興味深い暗黙裡の関係が生じます: la .djak morsi ri'a lo nu ri dzusoi .i joi le jemja'a po ri cu bebna - 「ジャックは死んだ、なぜならば彼は歩兵で兵隊長が馬鹿だったから。」 これは、この群としてまとめあげられた2つのbridiが彼の死の物理的原因であるということを案に意味しています。つまり、彼が戦車に乗れていたか、まともな指導者に巡りあえていたかのどちらかでさえあれば、彼は生き残っていたのかもしれません。 dzusoi x1 はx2(軍)の歩兵 jemja'a x1 はx2(軍)のx3(役割)における長 bebna x1はx2(性質)に関して愚か/ばかげている/思慮が無い; x1は阿呆/馬鹿

非論理接続詞はnaiで否定されることもあり、他の接続詞が適切であるということを示します: lo djacu ce'o nai .e'o lo ladru cu cavyfle fi le mi tcati - 「私の紅茶に、水の次にミルクを入れないで下さい」 これはもちろん、どの接続詞が適切かについては何も述べていません - se ce'o(まずミルクを、次に水を)と推測するかもしれませんが、.e nai(水だけで、ミルクは入れない)が正しいとしか言えません。 cavyfle x1はx2(成分)からなっており、x3へx4から流れ出る

jiやje'iを使った疑問文への答えには論理接続詞と非論理接続詞の両方とも使えます: A: ladru je'i sakta le do ckafi B:se ce'o (「コーヒーにミルクか砂糖いる?」「砂糖を入れて、次にミルクを入れて」)。この場合、砂糖やミルクはコーヒーの中では均一に混ざってしまうので、ceは全く何の意味もありません。また、砂糖がそこに溜まっているコーヒーが好きでない限り、joi(砂糖を入れたミルクを下さい)というのはjo'u(それらどちらも)と同じです。

今から紹介する5つ目のJOIは少し変わり者です。 fa'u 非論理接続詞: それぞれに分配 (AとBそれぞれ) fa'uがひとつのbridi(もしくは接続詞で繋がったbridi)内でひとつだけ使われる場合、fa'uはjo'uと同一のものとして扱われます。しかし、複数のfa'uが使われた場合、fa'uの前の構造がお互いに係り、fa'uの後の構造がお互いに係ります。説明じゃ分かりにくいと思うので例を見ましょう: mi fa'u do rusko fa'u kadno - 「僕と君はそれぞれロシア人とカナダ人だ」。これはmiがruskoにdoがkadnoに係っています。もちろん、この例ではmi rusko .i do kadnoと書いたほうが一層簡単です。 rusko x1はx2(性質面)に関してロシア系(言語/文化/民族) kadno x1はx2(性質面)に関してカナダ系(言語/文化/民族/地理)

最後の3つのJOIは2つの集合から新たな集合を作ります: jo'e A と Bの和集合 ku'a A と Bの共通集合 pi'u  AとBの直積集合

一般的なロジバニストにとってはこれらはあまり使えるものではありませんが、ここで取り扱うのがよいかと思います。 まず、jo'eは2つの集合からひとつの集合を作ります。この新しい集合はAとB両方の要素を含みます。重複するものは一度だけ数えます。 ku'aから作られる集合はA,B両方にある要素のみを含みます。 pi'uは上の2つより少し複雑です。A pi'u Bという集合は、"a ce'o b"というすべての可能な組み合わせを含みます。ここで、aはAの集合要素、bはBの集合要素です。つまり、要素の順列の集合となります。たとえば、集合Aは要素p,qからなり、集合Bは要素f,gからなるとすると、このときA pi'u Bは4つの要素 p ce'o f, p ce'o g, q ce'o f, q ce' g からなる集合となります。


Lojban Lessons - 27章 (ロジバン論理: da, bu'a, zo'u そして 項(terms))

※この章の内容にはかなり不備がある可能性があります。 ここの項目を学びたい方は、guskantさんのko lojbo .iuをどうぞ。

 この章の題に少し訂正が必要かもしれないですね。ここではロジバンにおける論理のやり方についてはやりません。まず、論理というのはおそらくすべての言語で同じものであり、第二に一章を割いただけではあまり実用的な論理を教えることができないからです。むしろ、この章では、論理学者が使う語に相当する語句についていくつか説明していきます。それらはロジバンではより様々な場面で使われることが分かるでしょう。  こういった論理の語句の微妙な部分の詳細にまで首をつっこむと心がぐにゃぐにゃになるほど難しく、この章の様々なところで反対意見がちらほらと出てきています。

 ロジバンの論理の語を学ぶためには、本来は論理には出てこない語句についても少し学ばなければなりません。まずはzo'uから始めましょう。 zo'u 冠頭(prenex)をbridiと分け隔てる

 zo'uの前には冠頭が、zo'uの後にはbridiが必ずきます。冠頭とは大雑把にいうと、bridiの前にくる、項を置く場所のことです。項とは、いくつかのロジバン語句― sumti、(sumtiがあるなしに関わらず)sumtcita、naku、項集合(termset)と呼ばれる憎き奴(これはこの章では扱いません)― を表す言葉です。  冠頭はbridiの一部ではなく、bridi内部に置かれて、そのbridiについての情報を与えてくれる項のことです。たとえば、次のような話題を述べるために使います: lo pampe'o je nai speni zo'u mi na zanru - 「恋人ではあるが配偶者ではない人について以下が成り立つ: 私は賛成しない。」 こういう文でわざわざzo'uを使うのにあまり価値はありませんが、色々と遊んでみるのはいいことです。さらにいえば、こういうやりかたで文を構成するのはMandarinなどの言語にかなり似ています。つまり、この構成の仕方はそういった言語の話者にとってはより直観的に感じることでしょう。 [注:日本語の助詞「は」はzo'uと近い役割を果たします。 ti zo'u mi dunda - これは私があげた。(これについて以下が成り立つ:私があげた)  こう言うと、zo'uのないところで「私は」と訳してきたのは不適切ではないかと感じるかもしれませんが、訳の自然さを出すためにそうしています。よりカジュアルな認識としては「"は"と"が"が共存するときの"は"」と考えるのがいいかもしれません。]

pampe'o x1はx2の恋人 zanru x1はx2(考え、出来事、行動)に賛成する

もちろん、 冠頭の項とbridiの間の関係は曖昧です。冠頭にあるsumtiはdo'e sumtcitaのあとにくるものとしてそのbridiと関連しているとも考えられますし、冠頭にあるsumtcitaはそれがbridi内にあるかのごとくそのbridiと関連しているとも考えられます。その項がbridiとどう関係あるのかについて明確なヒントを与えることなく、冠頭に項をおくことも十分可能です。: le vi gerku zo'u mi to'e nelci lo cidjrpitsa - この犬について以下が成り立つ:私はピザが嫌い。 これは、なぜ犬への言及の合理性についてどう推測するかを聞き手に丸投げしています。 cidjrpitsa x1はx2(トッピング/成分)のピザ

 冠頭にnakuが含まれるときは、いたって素直です。すなわち、そのbridi全体は否定されます。そのbridi自身がnakuで始まるときのように。  さて、冠頭はどの文まで有効なのでしょう?ある冠頭は、続くbridiが終わるまで有効です。もしそれが望まれないならば、冠頭をいくつかのbridiに適用する方法が2つあります。ひとつは、.iの区切りのあとになんらかの接続詞をつける方法です。もうひとつは、tu'e ... tu'u で囲み、それに同じ冠頭を適用させるというものです。この括弧はbridiをまとめくっつけるので、あらゆる語句を複数のbridiに適用するのに使われます。

zo'uをやりましたので、最初の”論理学的”語についてみていきましょう。

da 論理存在量化sumka'i 1 de 論理存在量化sumka'i 2 di 論理存在量化sumka'i 3

これらの語は数学の変数x,y,zのような、同じものです。しかし、いったん定義すると、それは同じものを参照しつづけます。これらの語はbridiの冠頭で定義されます。つまり、冠頭の適用が停止すると、これら3つの語の定義も解消されます。 da,de,diは、文字通り、有用であろうとなかろうと、どんなsumtiでも参照できます。これら変数を束縛する方法のまずひとつ目は、量化です(これが論理存在量化sumka'iという訳語のゆえんでもあるわけです。)それらはsumka'iであり、それらは量化されたとき最も有用であり、それらは存在的であります。"存在的"とはどういう意味でしょう?この語が使われたとき、それらは実際に存在するものを参照することを暗に意味しています。例をみましょう: pa da zo'u da gerku この言明は冠頭に pa da を有しており、「ひとつの存在するものについて以下がなりたつ:」という意味になり、ここでdaはそう定義され、bridi, da gerkuの中で使われています。日本語に訳すとこんな感じです:「犬であるようなものがひとつ存在する」。これは明らかに偽ですね。なにせ、世界には犬なんて五万といるでしょうから。もしda,de,diが量化されないなら、su'o(少なくとも1つ)が初期値として与えられます。ということで、da zo'u da gerku は、「少なくともひとつ、犬であるようなものが存在する」「次のようなxが少なくとも1つ存在する:xは犬」となります。これは真ですね。ここで注意して欲しいのが、どんな量化であっても、真であるためには以上でも以下でもなくきっかりとその数でないといけません: もちろん、1匹の犬は存在しますが、ロジバンの pa da zo'u da gerku には「犬が1匹いる」という素朴な意味かつ、「1以上でもそれ以下でもない」という意味が含まれているのです。

 これらの存在的sumka'iに関していくつかのルールがあります: - もし量化詞 ro がdaに使われた場合、それは『存在するものすべて』を指します。 - 存在的sumka'iの使用は、それが使われる真実の領域(the domain of truth)にそういったものが存在するということを主張するのみです。つまり、so'e verba cu krici lo du'u su'o da crida という文は、"真実の領域"がdu'u抽象句の内部にとどまるため、da crida とは述べていません。一般的に言って、抽象句はそれ自身の真実の領域をもつため、da,de,diを抽象句の内部で使うのはたいていの場合安全です。 - 同じ変数が複数回量化された場合、最初になされた量化が有効となります。すなわち、後に出てくる量化された変数の状態は、最初の状態により参照されたのと同じものを指すだけであり、後に出てくる量化されていない変数の状態は最初の量化詞を得ます。例: ci da zo'u re da barda .ije da pelxu は、「以下を満たすようなものが3つ存在する: それらのうち2つは大きく、3つすべては黄色い」。re daはci daの後にきているため、既に述べられた3つのもののうち2つを指します。daが量化詞なしで現れた場合は、最初の状態、すなわちciが想定されます。 - 冠頭に複数の項がある場合、それらの項は常に左から右に読まれます。ときどき、以下のようなことが生じます: ro da de zo'u da prami de これは、「存在するすべてのものXについて、少なくともひとつのものYについて以下が成り立つ: XはYを愛する」「すべてのものは少なくともひとつのものを愛する」という意味です。ここで、"もの"とはどんなものでもありえて、そのもの自身も含まれます(あるものは自分自身を愛しているかもしれない)。ここで述べておきたいのが、deはdaそれぞれに対して異なるものをとることができます。すなわち、deによって参照されるものは、そのdaによりけりなのです。daは冠頭でdeの前にくるので、それゆえ、それぞれのものが異なるものを愛しているかもしれないということになります(もちろん、偶然ro daが同一のものを愛している可能性もあるが、これは今回の場合に包含されているのは明らかです)。もし、daとdeを入れ替えたならば、異なる結果が生じます: de ro da zo'u da prami de = 「少なくともひとつのYについて、すべての存在するXについて以下が成り立つ: X は Yを愛する」。これはすなわち、「すべてのものが愛するものが少なくともひとつ存在する」という意味になります。 もちろん、どちらの主張も完全に偽です。何も愛さないものは多数存在します― 岩や、抽象概念など。同様に、万物が愛するものを想像するのも不可能です。"万物"は知覚をもたないものも含まれるからです。これらの変数が指すものを束縛するよりよい方法が必要ですね。ひとつの良い方法に、関係節を用いるというのがあります。: ro di poi remna zo'u birka di = 「すべての存在する人間であるようなXについて以下が成り立つ: Xはひとつ以上の腕をもつ」、「すべての人間は腕を有する」。これは真です。少なくとも潜在的、永遠的な意味においては。 birka x1 はx2の腕

[注:原文にはここにユニコーンの話があるのですが、明らかに誤りであるため削除しました]

興味深いことに、da,de,diに関係節を使うとき、その変数はpoiとnoiの区別がされずに束縛されます。これは、re da noi gerku が犬である二つのものを参照することしかしないからです。それゆえ、noiはda/de/diではあまり意味をなしません。de noi gerku cu gerkuのような馬鹿げていて明白なものであろうとなかろうと、あらゆる節は常に制限的なのです。 実際は、変数を定義するのに冠頭はそこまで必要ありません。bridiに直接sumtiとして使い、そこで量化することができるのです。必要なのは、それが初めて現れたときに量化することだけです。ということで、人間が腕を有するといった文は、birka ro di poi remna と書くことができます。しかし、これでは変数の順序の問題が残るので、冠頭はbridiをしっちゃかめっちゃかにしなければならないのを防ぐため、変数を正しい順番で置いておくために使われます。多くの変数を使うときは、冠頭はたいてい名案です。

2つ目の論理学的単語は基本的にはさっきまでみてきた3語と同じですが、sumka'iではなくbrika'iというところが異なっています。: bu'a 論理量化存在brika'i 1 bu'e 論理量化存在brika'i 2 bu'i 論理量化存在brika'i 3

これらは上でやった3単語と同様にすこぶる働きますが、注意してほしい大事な点がいくつかあります。: 項だけが冠頭にいけるのですから、これらbrika'iを項にするために量化詞をもたせる必要があります(そうすることで、brika'iはsumti化されるからです)。しかし、冠頭で量化されると、その量化詞は通常のselbriに伴う量化詞とはかなり異なった働きをします。すなわち、そのselbri変数のx1にふさわしいものの数を量化するのではなく、係るselbriの数を直接量化します。同じく、初期値の量化詞はsu'oです。というわけで、re bu'a zo'u は「関係Xにある2つのものについて以下が成り立つ:」ではなく、「2つの関係Xについて以下が成り立つ:」という意味になります。 練習がてら、bu'aの例をみてみましょう: ro da bu'a la .mik. = 「すべての存在するXについて次が成り立つ:Xはミクと少なくともひとつの関係にある」、「すべてのものは少なくともひとつの方法でミクと関係がある」。ここでも順序の問題があります: su'o bu'a ro da zo'u da bu'a la .mik. は「少なくともひとつの次のような関係がある:存在するすべてのものがミクとその関係にある」。最初の文は真です。どんなものであっても、ミクと呼ばれる少女とそれを関係付けるselbriを作成することができるからです。しかし、後者が真かどうか、つまり、万物とミクの関係性を表すひとつ以上のselbriがあるかどうかは確信がもてません。 selbriを量化する例を見てみましょう: ci'i bu'e zo'u mi bu'e do - 「以下を満たす無限の関係性bu'eが存在する:私は君とbu'e」、「私と君の間にはありとあらゆる無限の関係がある」

しかし、bridi内ではselbri変数を量化できません。bridi内で量化すると、それはsumtiとして働きます: mi ci'i bu'a do はbridiではありません。これが問題になる状況がいくつかあります。29章ではこういった問題を克服する方法を教えたいと思います。